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小野弘
2018年1月22日 10:32
あちこちに金山の名残が あのラクテンチが、実は明治36年(1903)に木村久太郎という人が始めた金山だったと聞けば、多くの人が驚くだろう。木村久太郎 その理由の一つは、金山に限らないだろうが、鉱山は人里離れた山の奥に存在するというのが一般的なイメージ。それが別府のメーンストリート、流川通りを一直線にさかのぼった突き当たりにあるというのだから、何とも意外だ。 とはいえ山のふもとには、
2017年12月6日 10:33
今も赤銅御殿惜しむ声 「赤銅御殿(あかがねごてん)が残っていれば……」とは、今でも別府でしばしば語られる言葉だ。 大正3美人の1人に数えられる美貌の歌人、柳原白蓮=やなぎわらびゃくれん、本名燁子(あきこ)、1885―1967=。柳原前光伯爵の次女で、大正天皇の従妹に当たる高貴な生まれだったが、明治44年、25歳も年上の筑豊の炭鉱王、伊藤伝右衛門(1861―1947)と再婚する。その伝右衛門が、妻
2017年11月20日 12:05
戦前の流川通りを描いたオダサク 大阪が生んだ作家、織田作之助(1913〜1947)と別府の絆はとても深いように思われる。まずは何と言っても、戦前の流川通りを舞台にした数編の作品の存在だ。流川通を真っ直ぐ海岸の方へ、自動車は真昼のように明るい街の灯の中を走って行った。流川通は別府温泉場の道頓堀だ。カフェ、喫茶店、別府絞り・竹細工などの土産物屋、旅館、レストラントが雑然と軒をならべ、そしてレス