嫌う自由 2021-8-11

めちゃめちゃ眠かったけど風呂に入ったら目が覚めた。
いつも通りの一日だったので書くことがない。仕方がないので最近考えていることを書く。


私にはTwitterの荒れていそうなトレンドを見て人間の醜悪さにほくそ笑む最悪の趣味がある。
当然のことながら精神にはいい影響を与え得ないのでやるべきではない。

昔からネットミームや作品名以外でトレンドに上がるような話題は大抵政治批判とか人権問題とか思想主義のぶつけ合い等々につながっており、その奥には想像を絶する悪人や双方向に一方通行の口論が広がっている。
体感だがコロナの流行を期に内容の苛烈さやトレンド内の比率が徐々に上昇しており、世間のストレス値の高まりを想像できる。

そんな闇のダイバーシティことTwitterトレンドだが、ここ数か月内容の傾向が偏ってきているように感じる。
具体的に言うと差別問題とかに関する内容が増えた。元からホットなトレンドではあったが、ここ最近は本当に多いように感じる。差別問題は永遠にホットトレンドではあるが....
おそらくオリンピックの開催が近づき、多様性などを意識する機会が増えたことによるものだと思う。意識させられる機会と言った方が良いかもしれない。


この一か月だけでもいじめ問題国籍問題ホロコーストにフェミサイドにいろいろあったと思う。正直どれにも触れたくないので内容には触れないが。

そういうものを見るたびに思うことが一つある。
差別というのは良くも悪くも「人とは違うから」という意識から起きるのだということ。
おそらく「良くも悪くも」と言う部分に引っかかったと思う。良い差別なんて存在しえないので当然だ。
この「良くも」と言う部分には「本質的には差別ではないが過度に反応してしまい差別として扱われている」パターンが含まれる。差別をなくさなくてはという善の差別意識から生まれる花粉症のような差別問題だ。
悪の差別意識から生まれるものに関してはもはや語るべくもなく悪なので語る気はない。今回は免疫過敏の方について触れたい。
前置きが長くなったがここからが本題。


昔から道徳教育を受ける中で疑問に思うことがあった。
「差別とはどういうものを指しているのか」だ。
この問いを道行く人に投げかければ大抵「自分と違うことを理由に不当な扱いをすること」と答えるだろう。私もこれには納得ができる。
言葉の大本の意味では不当な扱いには優遇も含まれると思うが、現在は冷遇されていることについて使うことがほとんどだろう。

私が疑問に思っているのは言葉の定義ではなく、本当にそのような意味で使われているのかだ。
先ほど言った通り世の多様性への意識の高まりを受けて、本来差別として扱われるべきでない別の問題に対しても「対象は差別を受けている属性を持っている」という事だけを見て一くくりに差別だとされている現状があるように感じる。それは果たして正しいことなのか、と常々思う。
「自分とは違うのだから」、「差別を受けているのだから」と言う意識を持つことそのものが続く内容の善悪に関係なく差別なのではないか?と。


私が小学生の時クラスに中国からの転校生が来ていた。
そいつはまぁ性格が悪く、同じく性格が悪かった私とはそりが合わず喧嘩になったり強く当たってしまうことがあった。
そのたびに「差別はよくない」「平等に扱いなさい」とかそういう指導を受け、もやもやを抱えていた。

確かに彼は一部からいじめられていたが、私が彼と衝突しているのは偏にお互いの性格の悪さによるものであって、それはいじめ、差別とは全く違う問題だろう。
それを「相手がいじめられているから」とか「相手の国籍が違うから」みたいな理由で一緒くたにされ、腫物を触るような扱いを求められることこそ間違っているのではないかと思ったが、幼い私にはそれを言語化できなかったし伝える勇気もなかった。


それと同じような状況になっているのをTwitterのトレンドでもたびたび見かけ、なんだかがっくりしてしまう。
もちろんそれ以上に純粋な悪があふれかえっていることの方が酷いし気分が悪くなるが、不当に扱われている対象を過度に守ろうとしているのを見るのは違うベクトルで嫌な気持ちになる。

差別をなくそうと尽力することは素晴らしいと思うが、個人的にそういう「守られている」と言う状況に置かれている限りは差別は無くならないと感じる。
差別がなく、平等な社会と言うのは極限まで簡単に言えば誰しもが同じように人を好きになったり嫌いになったりすることのできる社会の事だと思うのだが、この「嫌いになったり」の部分が悪として扱われているうちは無理だろうなと。
現状誰かを嫌いだというと「○○の属性を持っているからか?レイシストが」と非難される風潮があるように感じる。
もちろん特定の属性を指して嫌いだというのはあまり良くないが、個人単位で嫌うことに対して過度に反応し批判するのは間違っていると思う。

これは話が少しそれるのでついで程度だが、それぞれ持つ属性によって得意不得意はあってしかるべきなので、職業レベルとかになると責任も大きいのでそれに応じて機会の増減があっても仕方ないのかなとは思う。
もちろん個人差はあるのでその辺は考慮するべきではあるが。


長々と書いたが、要するに「○○な人には優しくしましょう」みたいな方向性でのアプローチはなんか違う気がするよなと言う話だ。
それ自体が対象が弱者であるという印象をつけてしまうように感じるし、過度に遠ざけることで見えなくなるものもある。
誰しもが同じ立場であるということは嫌う自由もあってしかるべきなのだ、と思う。もちろん「○○だから嫌い」ではなく個人として嫌うことに対する自由が。


近しい話なのでついでに書くと重大な犯罪を犯した人に対して「あいつは頭がおかしいからそういうことをするんだ」みたいに扱うのも違うと思っている。
どれだけ理解できない思考であったとしても「自分が育った環境では考えられない」と言うだけに過ぎなくて、環境が違えば同じことをした可能性は十二分にあるよなと感じる。

なのでそういう事件を見て「自分なら同じ立場に置かれてもこんなことしないな」というような意見を見ると悲しくなってしまう。本当に同じ立場だったら同じ行動をとってしまうのだろうし、それを見て自分もこうなりうるのだと気を引き締めるべきなのだと思うから。



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夕食が美味しかった。

今日はここまで。

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