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短編小説「人造天使」

「安曇君、私は天使になるよ。」

黒い長髪を振り乱しながら彼女は言った。
「発表資料の作成で忙しいので手短にお願いします」と画面に向かったまま答える。本当は全く忙しくなんてないが、毎日このやり取りを繰り返しているので本当に忙しいような気がしてきたな。
「天使になりたい」というのは先輩の口癖、というか夢のようなものらしく、この研究室に入ってから毎日のように聞かされている。
初めの内は先輩のいうことだからきっと研究に関係があることなのだろうと思い真面目に聞いていたが、全く要領を得ない夢物語を聞かされた回数が両手の指で数えられなくなった頃から(当然だが10進数での話だ)、僕は耳を傾けるのをやめ、聞いているふりに徹することにしている。
いつもならここで少しむっとした表情を浮かべ、小言交じりに話し始めるのだが今日は様子が違う。異常に興奮しているようだ。変なものでも食べたのか?
そんな心配など意に介さず先輩は話し始める。
「さてはまた聞き流そうとしているね?残念かもしれないが今日の話は嫌でも聞いてもらうよ。なんたって天使になる方法がついに確立したのだからね!!」

「・・・はい?」
僕は作業する手を止め先輩を見る。顔の周りに「してやったり」という文字が浮かんで見えた。恐らく僕が気になるようなことを言って気を引き、話を聞かせようという魂胆なのだろう。
しかし本当に天使になる方法などあるのだろうか。仮にあるのだとすれば聞いてみたい。僕は彼女の手のひらで踊ってみることにした。

「まず、私が目指しているのは”翼が生えている”、”天から舞い降りて人を導く”みたいな本物の天使ではなくて、”容姿端麗”、”頭脳明晰”、”文武両道”みたいな謂わば『人間の完成体』のようなものだという話はしたね?」
そうなのか。ずっと聞き流していたから知らなかった。てっきり本物の天使を目指しているのかと。
「しかしそれでは天使というより超人なのでは?」というツッコミが浮かんだが、そんなことを言うと話の腰を折ってしまうし機嫌を損ねられても面倒なので堪えた。
先輩は続ける。
「で、その完成体、”天使”になるにはどうしたらいいのか、ということをずっと考えてきたのだけれどついに答えが出た。進化するんだよ。私が。」
「よくわからないですけど先輩がなるんだとしたらそれって進化ではなく変化とか変態じゃないんですか?」
「確かに私が、と言うとそういう表現になってしまうね。でもこれはあくまでも進化なんだ。まぁ黙って聞いてみてくれよ。」
...この人は何を言っているんだ?全く意味が分からない。でも確かに何かをつかんではいるようなので言われた通り黙って聞いてみる。

「人間の細胞はどのくらいで全部入れ替わるか知っているかい?」
たった今黙って聴けと言っておいて質問をするのか。
「部位によって速度は違いますし入れ替わらない部位もありますが大体2ヶ月で全部入れ替わりますね。」つい先日講義で聞いたことをあたかも常識ですよという風に答える。
「詳しいね。それとも講義で聞いたのかな?この話は杉本教授がよくするしね。」
バレたか。恥ずかしいので早いところ話を戻そう。
「そんなことより、細胞の入れ替わりがどうしたんですか?」
「フフ、そうだね、君が言ったように人間は2ヶ月ほどで全身の細胞が入れ替わる。これは古い細胞が死に、新しい細胞が分裂するからだね。私はこの細胞の入れ替わりに目を付けたんだ。」
「それと進化に何の関係があるんですか?」
「君は察しが悪いね。つまるところ人間が不完全なのは単純に細胞の新旧だけを基準に、それも単為の分裂で入れ替えているからなのさ。」
どういうことだ???さっぱりわからない。
「まだわからないという顔をしているね。君は生物が何故進化するかわかるかい?」
これは知っている。聞きかじりでは断じてない。
「生物が進化するのは環境に適応できない個体が淘汰され、適応した個体が生き残り交配することによって環境に適応した遺伝子が残るので起きるんですよね。」
「そうだね。では、人間の細胞一つ一つを個体とみなしたらどうなると思う?
「え??」
細胞を個体とみなす???どういうことだ???
「つまりだね、生物が個体の淘汰交配によって種として進化するように、劣った細胞は死に、優れた細胞が交配し新しい細胞が生まれるようにすればどうなるかという話さ。そうすれば人間の中で細胞の淘汰が行われ人間という個体単位で進化が出来るというわけさ。」
「なるほど...?よくわかりませんけど細胞を進化させれば人間も進化するんじゃないかってことですか?」
本当によくわからない。
「まぁそんなところだね。例えば腕の筋肉細胞であれば力が弱い細胞が死に、逆に強い細胞同士が交配し次の細胞を産む。という風にしていけばどんどん力が強くなっていくって寸法さ。」
なんか理屈は通っているような気がしてきたな。まだしっくりこないけど。

「でもそんなことってできるんですか?」
「私は成宮貴音だよ?出来るに決まってるじゃないか。」
確かに先輩は優秀で、在学中に多くの論文を発表しているし、どれも教授が声をあげて驚くようなレベルの高いものだ。でもそれとこれとは話が別なような気がするが。あまりにも世の理的なものに逆らい過ぎているような気がする。
とにかく本当にできたのだとしたらすごいな。確実に歴史に名を遺すレベルだ。
「...待ってください。本来生物の進化って何世代もかけてゆっくり進行していくものですよね?仮に細胞の交配や淘汰が出来たとして人間全体に違いが生まれるのってずっと先のことなんじゃないですか?」
先輩はそんなことわかっていると言わんばかりにニタリと笑いながら答えた。
「そんなことはわかっているさ。」
そこまで顔に出しておいて口にも出しちゃうのか。
「だから細胞の世代交代のスピードを速くしたのさ。具体的に言うと結果が顕在化するには大体10~30世代はかかるだろうから1日5回位入れ替わるスピードかな。」
「それはすごいですけどそうなると寿命が遥かに短くなっちゃうんじゃないですか?完璧超人になる前に死んじゃいますよ」
「超人?まぁいい、寿命というのは細胞の分裂限界が来ることによるものだろう。交配するのだから常にフレッシュな細胞だよ。だから寿命なんて関係ないのさ。」
おいおい、つまり外的要因がなければ死なないってことじゃないか。しれっと人間の永遠の問題を解決しやがったぞ。

あまりにも無茶苦茶な発明に茫然としていると、先輩はズボンの尻ポケットから小さな青い小瓶を取り出して言った。
「これが天使になるための薬だよ。」
「そんな大事なもの尻ポケットに入れないでくださいよ。座った拍子に割れたらどうするんですか。」
「結果割れなかったからいいのさ。とりあえず飲んでみるよ。」
「飲んでも大丈夫なんですか?」
「大丈夫、うちのハム君はピンピンしてるよ。それに交配を止める薬もちゃんと用意してるしね。」
しれっと動物実験をしていることはともかく安全は確保できているようだ。
「じゃあ飲むよ。この一口は人類にとっては小さな一口だけれど私にとってはとてつもなく大きい一口だよ。」
「人類にとってもとてつもなく大きい一口ですよ。」
アハハと笑いながら先輩は小瓶の中の液体をグイっと飲み干した。
僕は固唾をのんで見守る。
「...何も変わらないじゃないですか。」
「案外馬鹿だね君は。そんなにすぐ変化が出るわけないだろう。今は細胞が分裂をやめ交配できるように準備をしているところだよ。一目でわかるほど変化が訪れるとしたら大体1週間くらいかな。ちょうど明日からゴールデンウイークだし楽しみに待っていてくれよ。じゃあね。」
そういうと先輩はそそくさと帰っていった。思ったより長く話していたようで外を見ると青かった空が赤く染まっていた。あの薬は酸性だったのか。


連休の間、ずっと先輩のことを考えていたら何も手につかなかった。こう言うと恋だ何だとつまらない妄想を押し付けられて気分が悪いが、断じてそんなものではない。
単に心配しているだけだ。先輩は「楽しみに待っていてくれ」と言っていたが、そもそもハムスターが無事だったからと言って人間に全く害がないとは限らないじゃないか。余りにもとんとん拍子に話が進んだので気づくのが遅れたが。
まして今回は人類史全部ひっくるめて誰一人行ったことのない実験だ。
今頃自宅で一人野垂れ死にしていることだって十二分にあり得る。

そんなことを思いながら重い足を引きずって研究室に向かうと、先輩はそこにいた。ちゃんと生きているようだ。僕は胸をなでおろした。
「やぁ安曇君、どうだ見違えただろう?経過は良好だよ。」
「...まぁ。」
先輩は元から整った顔立ちをしていたが、たった5日で格段に美しくなった。本当に天使のようだ。そんなことを面と向かって言うのは恥ずかしくて言葉を濁したが。
「変わったのは見た目だけじゃないよ。筋力もはるかに向上した。ホラこの通り。」
そう言いながら近くにあった長机をヒョイと持ち上げて見せた。しかも片手で。
あの机はこの研究室の中でも特に重たいもので、大掃除の時に2人がかりでやっとこさ運んだ記憶がある。すごいな。
「驚いてくれたようだね。もちろん頭脳も向上している。まぁ私は元々優秀だから証明のしようがないがね。」
「性格はともかく、無事に天使になれたみたいで良かったですね。僕も歴史的瞬間に立ち会えてうれしいです。」
「あぁ、でもまだ完全には程遠いよ。実際私の体はまだまだ変化を続けている。いずれ最適な形に収束するはずだろう?一体どのくらい進化するのか楽しみだよ。」
あれだけのパワーと容姿でまだ不満足なのか。末恐ろしいな。
「とりあえず今からしばらくの間、いろんなサークルにお邪魔して自分のスペックを確かめたいと思うんだ。」
「面白そうですね。」
確実に何人もの学生を引退に追い込むだろうが。
「そうだろう?そこで安曇君、観察記録を付ける気はないかな?」
「観察記録って...先輩の記録ですか?」
「他にあるかい?なに、別に1日中付き添えと言っているわけじゃない。例えば100mを何秒で走ったとか、暗算を何桁まで出来たとか、そういったことを報告するからその変化を資料にまとめてほしいんだ。自分一人じゃ時間が足りなくてね。」
正直とても興味があるので引き受けることにした。「夕方報告しに来るよ!じゃあまた!」と叫んで先輩はどこかに行ってしまった。

午後5時ごろ、先輩は研究室に戻ってきた。
「やぁ安曇君!なかなかいいデータが取れたよ!」
あちこちが汚れている。相当暴れてきたみたいだな。
初手100m走で世界記録を樹立してしまってからは記録が残る競技に手を出すのはやめたらしい。
そんな感じでひたすら化け物じみた結果を聴き、PCに打ち込む。途中で先輩が珍しくコーヒーを淹れてくれたのでありがたく貰う。苦くてちょっと苦手だけど作業に身が入るのでよく飲んでいる。
先輩の淹れてくれたコーヒーはとても甘かった。苦いのがダメなのも見透かされていたのか。
「今日はこんなところかな。遅くまで付き合わせてしまって申し訳ない。また明日からもよろしく頼むよ。」
そう言うと先輩は帰っていった。それにしてもこの結果とんでもないな。
どの分野でも世界を狙えそうな感じだ。

それから1週間毎日先輩のデータ収集に付き合わされた。
驚いたことに、毎日恐ろしいスピードで結果が良くなっている。身体が進化に適応するまで1週間かかるというだけで、いったん準備が整ってしまえばあとは指数関数的に進化が進んでいくようだ。ちょっと羨ましいな。
ただ、筋細胞の進化によって筋密度が高まったとかそんな理由で体重が爆増したらしい。「ひ弱なキミが抱えようとしたら骨が折れるだろうね。」とのこと。何気なく聞いてみたら「私だって一応女子なんだぞ。」と怒られてしまった。悪いことをしたな。
そんなことを研究室で一人データを眺めながら考えていると、先輩がやってきた。今日の報告はもう終わったんだけどどうしたんだろう。
「えーっと、あぁ安曇君か。悪いけど明日は学校を休むよ。どうやら天使も風邪は引くみたいでね。家で安静にすることにしたのさ。」
「わかりました。体調は大丈夫ですか?」
「大丈夫、ちょっと熱が出ただけさ。最近急に運動を始めたのが良くなかったのかも知れないね。」
「まぁ大したことないならよかったです。お大事に。」
「ありがとう。それじゃあまた。」
ずっと引きこもってて急に日を浴びると体調を崩すもんな~...よくわかる。
先輩もいざ天使になるまでは「アウトドアなんてのは蛮人の趣味だ。」みたいなスタンスだったし。
その後もデータを眺めていたらいつの間にか外が真っ暗だ。僕も帰ろう。


今日は先輩が休みだし本来の研究を進めようかな~と思っていたら、鴨川教授に突然話しかけられた。鴨川教授は僕がいる研究室を監督してくれている教授だが滅多にやってこないので、入学して2年目にもかかわらず殆ど話したことがないし、どんな人なのか良く知らない。何の用だろうか。
「最近成宮君と一緒に何か面白い研究をしているみたいだね。できれば詳しく教えてほしいな。」
なるほどその話か。特に黙っておく理由もないので僕は教授に話した。先輩が天使になりたがっていたこと。そのために細胞一つ一つを交配・進化させる薬を開発したこと。その薬の効果でみるみるうちに総合的な能力が向上していること。
それにしても先輩は教授に一切話を通さず研究を進めていたのか。何かアドバイスを貰えたりしたかもしれないのにな。でも完成しているわけだし必要なかったのか。そんなことを考えつつ話している間、教授は目をダイヤモンドのように輝かせながら聞いていた。
「なるほど、通りで彼女最近すごく綺麗になったわけだ。それにしてもすっごい面白そうな発明じゃないか!いいなぁ~、僕も参加したかったな~...」
ひとしきり話を聞いた後教授はとても悔しそうな顔をして言った。
「そういえばさ、よくSFなんかで人間を進化させたら頭は肥大して手足は細ってタコみたいになっちゃいました!みたいな話あるじゃない。普通に人間を進化させたらあんな感じで人型からだんだん離れていくと思うんだけど、彼女はよほど上手に進化の取捨選択をしたんだろうね。」
「はぁ...僕にはよくわかりませんけど先輩は今日も立派に人型ですよ。」
「アハハ、それじゃあまた。何か面白そうなデータ取れたら教えてね。」
そういうと教授はどこかへ行ってしまった。
この話を聞くためだけにわざわざ研究室に来たのか...
とりあえず研究にとりかかった。今日は先輩の夢物語を聞かされることもないし、他に友達がいるわけでもないのですごい勢いで研究が進む。一人で集中するとこれほど頭が冴えるのか。すっかり忘れていた。
集中しすぎて日が暮れているのにも気づかなかった。昼食もとっていないので腹ペコだ。早く帰って何か食べよう。

翌日登校すると、グラウンドに人だかりができていた。どうやら誰か倒れたらしい。最近熱くなってきたからな。熱中症だろう。
僕の中の野次馬根性がザワザワと騒ぐので見に行ってみると、先輩が倒れていた。
「先輩!?」
僕は咄嗟に先輩のもとに駆けよった。息が荒く、意識も失っているようだ。
風邪が治らないまま無理に来てしまったのか?とにかくここにいても仕方ない、医務室まで運ぼう。先輩を抱きかかえる。なんだ軽いじゃないか、何が「ひ弱な君には抱えられないよ」だ。先輩はいつも適当なことばかり言う。
いや火事場の馬鹿力的なやつかもしれないな。ものすごく身体が軽い。こんなに早く走れたっけ?と思うほど全力で走った。
医務室にはあっという間についた。とりあえずベッドに寝かせ、冷やすものを用意する。風邪か熱中症かわからないがとにかく冷やすものは必要なはずだ。用意して戻ってみると、明らかに先輩の様子がおかしい。皮膚がボロボロと剥がれ、内側でウゾウゾと蠢いている。なんだこれは。
そういえばさっき抱えた時も、必死だったのですぐには気づけなかったが何か感触がおかしかった。背中がうねうねと揺らいでいた。

もしかして薬のせいか?交配が加速しすぎて細胞の交換が目に見えるレベルまで来てしまっているのか?もしかして昨日休んだのも―
先輩が目を覚ました。
「先輩!!」
「..............君は........安曇君か...?実験...は失敗したみたいだね...ハハ...」
「そんなこと言ってる場合じゃないですよ!今すぐ進化を止めないと!交配を止める薬!あるんですよね!?」
「...すまないが...あの薬は廃棄してしまった...」
「廃棄...?なんで...」
「舞い上がってしまってね...こんな薬は必要ないと思ってしまった...だから自業自得なのさ...」
「そんな...」
それじゃあ先輩はどうなってしまうんだ。「普通に人間を進化させたら人型からだんだん離れていくと思うんだけど」、鴨川教授の言葉が脳裏に浮かぶ。
そうだ、鴨川教授ならどうにかできるかもしれない。
「先輩、待っていてください。必ず助けます。」
そういうと僕は医務室を飛び出した。この時間なら教授は講義室で講義中のはずだ。
居場所がわかるのは助かる。あの人が普段どこにいるかなんて知らないからな。
受講している学生には申し訳ないがこっちは命がかかっているかもしれないんだ。講義室に飛び込む。学生達がざわざわと騒ぐ。うるさい。ざわざわはもう十分だ。
教授はとても驚いていたが、僕の顔を見て事情を察したようですぐについてきてくれた。

医務室に着くなり、全身をうねらせながら苦しむ先輩の姿を見て教授は言った。
「成宮君の体が進化のスピードに耐えきれていない。申し訳ないがこれはどうにもできないな。奇跡的に進化の速度が低下するとか、収束することを祈るしかないよ。」
「そうですか...」
仕方がない。後出しのようだがなんとなくそうかもしれないとは思っていた。だって元々人智を超えたような研究だ。先輩以外にどうにかできるわけがなかったのだ。必ず助けるなんて大口を叩いたくせに人を頼ることしかできない自分が不甲斐ない。悔しい。
「君、もういいよ、諦めるしかないのさ。しかし、どこで間違えたんだろうね。...わからない」
先輩は僕の肩に手を乗せて言った。よく見ると指先が2つに割れている。
その指を見た教授が切り出した。
「自分の細胞を交配させたのが悪かったのかも知れないね。生物を遺伝子の近い者同士で掛け合わせると奇形児が生まれやすくなるだろう?それと同じさ」
「...なるほど、そうかもしれませんね...天使になる方法が見えたと思って浮かれて、そんな...初歩的なことを見落としていた...お恥ずかしい限りです...君も巻き込んですまないね...本当に...すまない...誰かはわからないけれど。」
そう言い終わると同時に、先輩の体は一層強く蠢き始めた。皮膚は剥がれ、すぐにまた張りなおされる。腕も指先の割れ目からどんどんと裂けた。布団で隠れているが足も恐らくそうだろう。明らかに先程までと厚みが違う。
目の前で先輩が人でなくなっていく光景を見ている間、存外心は穏やかだった。いや、感情の回路を止めてしまったのかもしれない。きっとこの感情をすべて受け入れたら僕は狂ってしまうのだろう。
彼女は人ではなくなってしまった。少なくとも僕の知っている”先輩”では。
薄灰色の肌をして、手足は増え、きっと記憶すら失ってしまった。
これが人間の最適解なのか?嘘だろ?
ズルズルとベッドから降り、薄く長く伸びた柳のような三つ又の肩甲骨を振り回し彼女は飛んで行ってしまった。

「驚いたね。まさか肩甲骨で空を飛べるとは。」
「ふざけてる場合じゃないですよ。先輩を連れ戻さないと。」
「もしかして連れて帰ってくれば助けられるかもしれない。とでも思っているのかい?無理だよ。あれはもう人の手を離れてしまった。それに知っているかな?一般的に想像される美しい天使像というものは実は天使によって見せられた幻覚で、実際の天使は大量の羽が生えた怪物のような姿をしているそうだよ。」
「つまり先輩は望み通り天使になれた、とそう言いたいんですか。」
「そういう見方もできるんじゃないかなという話さ。」
「ふざけないでください。彼女も僕もこんな結末は望んでいなかった。絶対に救って見せます。」
「まぁ怒らないでくれよ。最後にもう一つ、黄泉竈食(よもつへぐい)って知っているかな?」
「よく知らないですけどあの世のものを食べると現世に戻れなくなる...みたいなやつですよね。ていうかそれは今関係ないですよね。いい加減にしてください。」
「...行っちゃったか。安曇君、天使ってのは意外と狡猾な生き物らしいよ。」


あれから2ヶ月、突然空に現れた”天使”にしばらくは皆興味津々で捕獲・研究を目指す科学者たちや大学の怪しい実験によるものではないかとデモ行進を行う者、観光スポットにしようと画策する役所のお偉いさんなどがたくさん湧いたが、割とすぐに飽きられてしまったようで今ではゴシップ誌の隅っこや月刊ムーくらいでしか話題にされていない。住民や学生もすっかり見慣れてしまった。

この街には、今日も天使達が舞い降りる。

助けてください。