純文学のファスト化に意味はあるのか?
子供と本屋に行った。最近の娘のお気に入りはミルキー杉山の名探偵シリーズ。子供向けコーナーに彼女は急ぐ。走るな!店内を!!
「どれにするかなー?2冊はダメよね??」と悩む彼女を尻目に、私は子供向けの特設コーナーに目をやる。そこで私は目を見張った。
眼前には『有名文学作品を簡素にまとめてあらすじだけ分かる』シリーズの本が特設コーナーとして堂々とそこにあった。
なんだこれは?
純文学までファスト化!?
sabatoraは激しく掻き乱された。あらすじだけ分かる?気になる。何が書いてあるかとても気になる。帯には私が読んだことのある作品がいくつも並んでいる。それがこの薄さの本にどう要約されているのだ??気になる…
でも手がない。買わないものは触らない。何度も子供に言い聞かせた言葉だ。私はこの本を絶対買わない。それは分かる。だから私が触る訳にはいかないのだ。子育ての呪いが発動。
「これにするー!」娘の決定の声で私の葛藤は幕を閉じた。
レジに並んでいる最中もあれを読んで読んだことになるのか??
数メートル先、同じ店先に本物が置いてあるのに?
純文学は筋書きを読むんじゃなくて表現を読むものだろう。志賀直哉なんてあれだけ削ってるのにこれ以上削れないだろうよ笑
そんな思いが駆け巡る。
はっきりしたのはうちでは禁書扱いにするということだ。本物を読んで欲しい。本物を。好きになって読んで欲しい。
娘が夢野久作のきのこ会議の冒頭をテレビで紹介させれたのを見て、「続きが気になる」というので青空文庫から引っ張ってきた時があった。黙って読んで納得していた。あれからスーパーのきのこコーナーで「きのこ会議中に捕まったきのこたちよー」と言うようになった。
走れメロスを読んでから、理不尽な私の対応があると「〇〇(娘の名)は激怒した!必ず、かの邪智暴虐のお母さんを除かねばならぬと決意した」って揶揄するようになった。
宮沢賢治のツェねずみを読んでからは「まどうてくれ」が私たちのマイブームになって2人でよく使った。
これらの思い出はあの本からは生まれるのだろうか…結局手に取らなかった私には分からない。分からない本を批判するのもよくない。
ただ本物があるなら私はそちらを読んでみたいし、娘にもそうであって欲しい。
あらすじだけ知っている事になんの意味があるのか?これが世の中が求めるコスパという事なのだろうか。
自分の価値観と世間が求めているものの違いに大きな乖離を感じつつ、将来娘が「この本めっちゃ良いよ!!」なんて勧めてきたら(ぶっとばすぞ!)と思うだろうなぁと。
まだ起きてもない心配をする私の横で「車の中で読んでいい?」と名探偵シリーズを抱えるんるんの娘と共に本屋を後にした。
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