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お金と酒とセックス以外に大切なことがあるって、今は知っているんだ

私の内側がまだ、まるで定まらなかった頃の話だ。例えるならとろみのついたスープくらいの、容易に流れてしまうほど流動的な自己。
毎晩、飲めないお酒を体に流し込んでは、作業的に吐いていた。そういう日々に、何かを掴んだという感覚はほとんどなく、いわゆる社会の歯車にすらなれず、ぼんやりと人生を消化していた。

(そうか、これが消化試合というやつなんだな、私はきっと、30歳を迎えることはないだろう)

そういう事ばかり考えていたな、と、時々あの感覚を思いだす。
なんとなく毎日が薄暗かったが、真っ暗闇とは感じていなかった。頭の中、思考に靄がかかったような、どこに何があり、何が正解か、いまいちよくわからないけどまあいいか……「諦め」という言葉が近いかもしれない。そういう感覚。

そんな流動的な自己をどうにか繋ぎ止めていたものの一つが、性的なことだった。
愛情の有無は正直二の次で、自分の体(そして心)の価値も度外視で、他者と性的な関わりを持つ時間は「生きている」と強く感じられた。

***

酒とセックスを行ったり来たりする荒んだ生活は、そう長く続いたわけでもなく、20歳すぎくらいで実家を出たタイミングで、成り行きで付き合った人の存在が、紛れもなく救いというやつだった。
私の貞操観念はただれていたが、パートナーを裏切ってまで様々な相手とセックスをしたいとか、そういう願望・習慣は一切なかったので、その人以外とは関係を持たず、すんなり3年一緒にいた(まあ、色々事情があり、最後には別れがやって来たのだけど)。

その後私はめきめきと、自己や自尊心や生きている実感を取り戻し、社会の中で人を愛したり愛されたりする感覚をリハビリ的に掴み直していた。
酒を飲むことでしか繋がれなかったコミュニティとは関係を断ち、実家ともほどほどの距離感を保ち、自分の力で生活をした。
「ようやく自分の人生が自分視点で始まった」
という実感があり、視界が急に開けて、私はいささか戸惑ってすらいた。

そういえば、私のただれた日々のことや、経験人数の数字を、あの人は面白がって聞いてくれたなぁ、と思いだす。
もう会うことも喋ることもない、未練も何もない人だけど、いまだにどこか感謝している。

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「性的なことはそれほど大きなことではなく、人生のほんの一部の楽しみであって、もっと楽しくて、心を動かし、刺激的で、あるいはじわっと心に沁みるような、そういうことはこの世に数えきれないほど存在する」
ということをはっきり実感した時、自分の中の大きな石……どろどろとした歪な価値観の塊のようなものが、ごろんとひっくり返ったような感覚があった。

そんなの、知らなかった。
人生の上で、他人と関わる時に重大な要素は、お金と酒とセックスなんだと本気で思っていた。
自分の人生は、実は消化試合ではなく、誰かに評価されるためのものでもなく、これから試行錯誤して作り上げていくものなんだ……その発見は意外にも、なんというか、嬉しかった。狭くて窮屈なところから、外に出られたようで。

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今でこそ、性的なことは愛情の延長線上にあるものとして楽しめるようになった。そうやって楽しめることがいかにかけがえないことか、安心と心の健康の上で成り立っていることか、ここまで踏んできた道のりがあるからこそわかる。

行為の最中に「愛しているよ」と伝えられるのは、自分の目で、クリアな視界で、ちゃんとあなたを捉えているからだ。
愛している。あなたと抱き合いたい。
全て私の意思で、そこにお酒も、諦めも要らない。
あの頃は知らなかったけど、そうやって言えることこそが「自己」なのだと今は思う。


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