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俳句と競争と魅力と

俳句を定期的に詠むようになって、2年が経つ。
それまで僕にとって俳句は「怖いもの」だった。

自分の感性が試されるように感じた。
桜が咲く、田植えをする、鳥が飛ぶ。当たり前の日常のなかに何かを発見し、詠む。
自分だけが見つけた特別な風景や思いを込めて詠む。そんな句が、他人にうまく届くのだろうか。
「なんか普通ですね」
「ストレート過ぎて面白くない」
「結局何が言いたいの?」
「文法が間違ってる」
なんて言われたらどうしよう。自分自身を否定された気がして立ち直れないだろうと思った。

競争社会と憧れ

なんでこんなに他人に否定されることが怖いのか。
それはたぶん、ずっと誰かと競争してきたからだろう。学校では正解を導くための勉強をした。数式や単語、時代を暗記しテストを受けた。中学、高校、大学、社会人。それぞれ楽しい思い出はあるけれど、それぞれに競争があった。きっと、それが今の社会を支えているのだろう。誰かに認められて、成功して、立派にならなければならない。そんな風な考えが僕の中に浸透してしまっているのだ。だから何が正解かも分からない俳句というものを防衛本能が危険視して、僕を近づけさせなかった。
「俳句をやったって、仕事の役に立たない。切字や古語なんて分からない。自分には無理だから、それより資格の勉強をしないと」
そんな風に、遠ざけようとした。

でも、憧れは消えなかった。
たった17音で美しい世界を、自分自身の心のゆらぎを表現できたなら、こんなに素晴らしいとこはない。
ふらっと散歩して、草花や虫たちを見つけ、詠む。
最高にかっこいいではないか。

はじまり

2年前、僕は恐れを抱いたまま意を決して、noteで当時できたばかりのサークル「俳句幼稚園」に入園した。なにせ幼稚園だから厳しいことは言われないだろうし、自由にさせてもらえるはず。そして同級生はみんな初心者だろうから自分の拙い句も目立たないだろうという下心もあった。
俳句幼稚園は、園長も、担任もとても優しく誠実な方々だった。いい句は心の底から褒めてくれるし、気になる点があれば丁寧にアドバイスをくれる。しかも、こちらのモチベーションを下げないようにいい点も指摘してくれるから、聞く方も素直に改善点を理解できた。なにより、一緒に学ぶ方々の温かい支え合いは励みになった。お互い初心者だから褒め方も分からなかったが、一生懸命相手の句のいい所を見つけ選評し合った。

恐れていたことは何も起こらなかった。誰も僕の感性や視点を馬鹿にすることはなかったし、季語や切字や古語は17音にまとめるための武器だった。むしろ17音という縛りがあるからこそ、余白が生まれ奥深さが生まれるのだと分かった。

ここは競争の場ではないんだ。
むしろ社会の異様な競争やそこですり減った心のうちを詠むことができる。しかもその句に共感してもらえることだってある。

俳句は僕が思っていたよりもずっと、自由だった。
僕はプロの俳人ではないからどんなに詠んだってお金にはならない。つまり、僕にとって俳句とは資本主義の外にあるのだ。競争はない。敵はいない。いるのは支え合い、褒め合い、励まし合う仲間たち。

自分と季語と向き合って、思いの丈を込める。答えは自分の中にある。きっと、自分だけの俳句が詠める日が来るはず。

俳句の魅力

俳句の最大の魅力は、17音という短さだと思っている。

大好きな小説がある。でも、全文を覚えるのは僕には難しい。頑張って、特に好きな一文を記憶したりするが、やっぱり前後関係があってそこだけで物語は言い表せない。
でも、短歌や俳句なら覚えられる。しかも、元々声に出して詠むことを想定しているものなので、リズムもよく心地いい。いい歌や句は声にすると心に沁み込んでいくような感覚になる。これは、作者の詰め込みたい言葉を極限まで削り、余白が作り出されているからだと思う。

冬の虹ぼくに翼があったなら     橘鶫
背負い投げを食らひてあいの風立ちぬ Aloha

これは僕が親しくさせていただいてる2人の俳人の句。読むだけでも味わい深いが、声に出すとさらに深く作者に迫れる気がする。
どんなことがあれば「翼」が欲しくなるんだろう。「背負い投げを食ひて」って何が起こったんだろう。極限まで削られた言葉から無限の物語が、始まる。

最後に恥ずかしいが自分の句も。

春田打つ働き者と言われし掌    清川鮎太

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