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【短編小説】柄のシミ

 薄暗く冷たい倉庫の中で積み上げられた段ボールのプリントが、にやりとして、私のことを嘲笑っていた。視覚だけではなく聴覚でもそう感じたとき、私は常軌から狂気に足を踏み入れたことを自覚した。
  それの底が入口からやけに近いところにあると思えたのは、おそらく傾斜が極端に急、もしくは断崖絶壁で、あとは抗う術もなしにただ落下していくだけであったことが近因であろう。
  懸命にみっともなく常軌に縋りながら、じりじりと足場を失っていく恐怖を刹那の暇もなしに浴びながら、気付けば、突然、私の心は身体と共に私のものではなくなってしまっていた。人はこうして人でいられなくなる。
 その日はまだ、何もかもが突然全て死んだように動かなくなったと思うまでに留まり、自らが”明るく生きているフリをしながらゆっくりと死に向かって歩いていた”ことには気が付けなかった。もう既に底には辿り着いていたが、目を閉じていたのだ。

 夜通し働き、2時間もすれば朝からの仕事が始まる。いくら身体を動かしても空腹の信号が送られてこなかったのは脳側のバグで、これは絶えず繰り返さないという条件付きでなら運用に耐えうる、という誤った想定から見逃し続けた、設計の不備によって生まれたものだった。
 看過していたのだ。昼になれば自動的にデスクで摂ることができる栄養を胃が受け付けなくなった瞬間に、私は暗転したモニターに映る自身のやつれた顔に戦慄した。お前は一体、誰だ。私はもう所定の時間まで席についていることさえ叶わなくなってしまった。何故、何のために、どこにも味方など作れはしない。それが私ではないのだから、知る者がいないだろう。

 堅牢なバリケードを築いて重厚な鎧を纏う私は常に背後に弱く、鈍かった。何度も背に刃を突き立てられても、それに気付くことがなかった。痛みとは、まずは理由をもって無視するものであり、傷とは、滴る血がその存在を教えてくれるものである。
 誰しもが背に傷を負っているなどとは思わない。常軌に身を置き続ける限り、負わないからだ。失血死の際まで人目に触れずにいたのは、鎧とバリケード、つまり自身のせいであった。沈黙とその見通しの甘さだけが私を死の淵へ追いやった。それだけのことだった。

「足元の石を拾ってごらんなさい。それが鮮血に染まっているのならば、貴方は傷だらけなのです」
「そんなことを言われましても、私にはもう、赤と青の見分けがつきません」
「屈んでそれを手に取ることはできますか」
「できません。体中に釘が刺さっているかのように、とても痛いのです」
「何故、痛くても動くのですか」
「守りたいものがあるからです」
「死体に守れるものはありませんよ」

 私は一体どこの誰と言葉を交わしたのだろうか。気付けばそこは月明りだけに照らされた真冬の海だった。ぷかぷかと浮かぶはずの身体が只々沈んでいってしまっている。もう息などは気にならなかった。

 ーーああ、私はすでに、死んでいたのか。

 ちっぽけで、何もできない、格好の悪い、みっともない、それでも良いと思って這いつくばって光に向かって進んできたが、初めから光などなかったのだろう。辿り着かなかったのだ。きっとそれが真に光であれば、私は導かれて救われていたと思う。狂気の底に落ちて目を瞑り続けている間に、私は何もかも見失って、ただ死に向かって歩いていただけのことだったのだ。

 沈みゆくだけの私が青くもない波の中に見つけたのは、小さなナイフだった。刃には赤い血痕、柄には黒いシミがある。
 一目見て分かった。これは君が私を刺したナイフだ。手に取って撫でてみると、刃の血痕は一撫でもすれば落ちたが、柄のシミ、いや、血痕だ。それは決して落ちることはなかった。強く握りしめ続けて傷だらけになった掌、小さな体で必死に生きようとして、もがいて私の背に突き立て続けたのは、狭く閉じ込められたその場所で、刺す所が見当たらなかったからだろう。やっとひとつだけ真実が見えた気がした。

 この大きな海の一部になれても、私がちっぽけで何もできない罪人であることにはなんら変わりはないが、ただ痛みを感じることがもうないという、その喜びだけで眠ろう。
 冷たさを感じなくなった。次第に、私に月明りが届くこともなくなった。

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