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【短編小説】ワイシャツの皺


 晴天のもとでアイドリングしている車とその運転手である編集者が、約束の時間を過ぎてもそこでただ時計を見ながら助手席に乗る予定の作家を待つことができたのは、本日これから起きるイベントがその作家曰く執筆活動において酷く重要な物事であるということが理由だった。

 黒いシートに籠る熱がエアコンの冷風で退かされながら、夏日の車内は運転席の『ただ人を待つだけの苛立ち』で満ちようとしていた。

 玄関から出てきた作家は自宅の前で散々人を待たせておきながら寝ぐせ頭で、あきらかにひと手間をかけたサンドイッチを片手にし、黒縁眼鏡越しに運転席を覗き込んた。

「あれ? 佐々木君じゃないか。伊藤さんは?」
「伊藤先輩は別件で手が話せないので、私が来ました」
「そうか。佐々木君は、伊藤さんよりも運転が上手いかい?」
「わかりません」
「そうか」

 作家は電話でのやりとりで佐々木がここに訪れていたことを知っていたはずだが、理由もなくそのような会話を持ち出すことをコミュニケーションのスタートとして、ゆっくりと車の後方部を周ってから、助手席のドアを開けて新車のセダンに乗り込んだ。サンドイッチはもう食べ終わったようだった。

 佐々木はカーナビに目的地を入力しようとしたが、作家がそれを阻止した。

「これを入れてしまうと、音声ナビがずっとうるさいんだ。私は誰のものかもわからない音声に目的地を案内されたくなくて、車線がどうとか、渋滞がどうとか、癪に触ってしまうんだ。どうにかして、これナシで行くことはできないか?」
「永井先生がそうおっしゃるのなら、そうしますよ」

 佐々木はカーナビの操作をやめて、スマートフォンで地図を調べて頭に入れることにした。

「すまないな。原稿がどうしても行き詰ってしまって、息が詰まってしまいそうで、これはくだらない言葉遊びをしたいわけじゃなくて、あの部屋の中でまた今日一日を過ごしていたら、きっと私にはカビが生えてしまうのだと思う。そうやって私はカビて、人ならざる物になって、人の形だけをして、人の言葉だけを喋って。ブルーチーズだ。チーズのような幸福の代名詞に、カビを生やして喜んでいるそのおぞましさと、よく似ているような気がするんだ」

 佐々木は永井の話など欠片も耳に入れることなく、代わりに目から目的地までの地図を完璧に頭に入れていた。D<ドライブ>に入ったギアと少し強まったエアコンの風、そして静かなエンジンの音が2人の1日をタイヤと共に前へと走らせた。

「佐々木君は私のことを、酷く面倒な作家だと思っていないか?」
「いえ、そんなことはないですよ」
「私はね、可能な限り、人から面倒な作家、面倒な人間だと思われていたい。それがどうしてだか、わかるか?」
「いえ、まったく」

 1度目のウインカーは左折だった。

「たとえばだ。私はほら、今こうしてワイシャツを着ているだろう。最近はどうにも、襟が欲しい。首元にそれなりの、いくらかの、ちょうどいい圧迫感が欲しいんだ」
「はい」
「このワイシャツは今、とても皴だらけだろう。君はこれを見てどう思う? いや、返事はしないでほしい。どうか運転に集中しながら、面倒な人間の話をただただ聞いていてほしい。私はまだ、君の運転が伊藤さんほどに安全なものなのかどうかを、信頼しているわけではないのだよ。半信半疑にも満たない。一信九疑、いや二信八疑ほどだ」

 信号が赤になったので、佐々木は当然それに従った。

「それでだ。私は今こうして、皴だらけのワイシャツを着ているわけだが、私にはこれが、君からどう見えるかがわかるんだ。君は私のことをきっと怠惰だと感じている。それ以外にはないと思う。だがね、このワイシャツの皴は、いくつもの答えを本来は持っているのだよ。それが今一つしかないと、私がそう言うのは、これを私という人間が着ているからなんだ。そう、本来であれば、皴だらけのワイシャツには様々な意味がある。不注意、無知、怠惰、貧乏、あるいはそれが家族によるものであったり、アイロンの故障であるかもしれない。その可能性は無限大のはずだ。だがしかし、その皴だらけのワイシャツは、人が着ると、途端にたった一つの答えになってしまうのだよ」

 信号が青になったので、佐々木は当然それに従った。

「皴だらけのワイシャツとはね、自己理解なんだよ、佐々木君。それを身に纏うことで、他人に、任意の相手に、何故ワイシャツが皴だらけなのかという理由を、自分の思う通りに受け取らせることができたならば、それはひとつの自己理解なんだ。君はね、原稿の締め切り間近に、突然編集者を自宅まで呼び寄せておいて、家の前で20分も待たせた挙句に寝ぐせ頭で出てくる私のことを、怠惰な人間だときっと思っているはずだ。無礼かもしれないが、無礼とは怠惰の一環である。そう、何故ならば私は、そう思われていたいと思っている。無知だったり、無能だったり、誰かから虐げられていたり、可哀想だったり、神々しかったり、誰かにとって、私を知る人間にとって、そこから見える私という人間は決してそうであってほしくない。面倒で怠惰な人間だと思われていたい。それが私なのだから」

 2度目のウインカーは右折だった。カチカチという音が永井の話の相槌にならない、ズレたリズムを刻んでいて、佐々木は大層心地が悪かった。

「先日私は、とてもオシャレなカフェに入った。このくたびれた風貌の男がだ。そこに集まるのは、女子高生、女子大生、OL、カップル。私には自殺願望があるわけではないし、被虐的な性癖があるわけでもない。ただただ私は、新作のケーキが食べたかった。限定だったんだ。私がケーキに目がないことを、佐々木君は知っていたか?」
「はい。有名ですからね」
「そうなんだよ。有名なんだ。有名にしたのだよ、私自身が。私は物心ついたころからケーキが大好きだった。家が貧乏だったから、ホールケーキなんてものは家の敷居をまたぐことはなかったよ。いつだってすでに切り分けられた、何分の一かのケーキを食べていたんだ。それでも幼い私は、年に一度だけ食べられるショートケーキ、それだけで幸福を得られた。だから『ア・ピース・オブ・ケイク』なんて言いまわしが大嫌いでね。何が容易いのかと。私の母はね、女手一つで毎日働きながら私を大学まで行かせたのだよ。そんな中で、先を考えながら、お金の使い道を考えながら、貯金をしながら、そうやって日々の積み重ねからなんとか捻りだした『ア・ピース・オブ・ケイク』の、何が容易いのかと。こんな言い回しをする人間を、私は今後とも人種ごと差別して生きていくと決めているんだ」

 信号が赤になったので、佐々木は当然それに従った。

「私はね、大人になって、自分でお金を稼げるようになって、真っ先にホールケーキを母に贈ったよ。もうそれだけがしたかった。そのはずだったんだが、どうにも私自身がケーキを貪る頻度のほうが明らかに多かった。私はケーキが好きだ。パンがあってもケーキを食べるのだよ。でもね、年を重ねれば重ねるほど、ケーキに貪りつくのが、もしかしたら恥ずかしいことなのかと考えるようになった。実際はそんなことはなかったよ。ただ、それは私がベストセラー作家という立場にたまたまなったからかもしれない。私のような、異端でありそうな人間が、いい歳こいてケーキに目を輝かせていても、たとえばそれが独身で生涯恋人ができたことがないただの会社員がそうであった場合と比べて、許されがちなのだよ。何故なら、もとより異端なのだから。だから私は異端を利用しようと考えた。独身で生涯恋人がいたこともないが、私はある種では公の人間であって、ケーキが大好きなベストセラー作家というキャラクターになった。逃げ道があるんだ。私はそれを知っている。これも自己理解のうちの一つだと私は思っているよ。だから私はこれからも、恥ずかしげもなく、若い女性が集まる店に一人で立ち入って、ケーキを貪り続けるのだよ。多少奇妙なものを見るような視線には耐えて、それでもいつかその皴くちゃのワイシャツを着た寝ぐせ頭の中年男が、あの永井であるとさえバレてしまえばすべて許されてしまうという事実があるから」

 佐々木は頭の中の地図に従い、目の前の信号に従い、ただただ目的地へ向かうことに集中していた。

「佐々木君。これからどこに行くかを、念のため確認させてもらってもいいかい」
「はい。動物園です」
「ありがとう。君は伊藤さんと違って、寡黙だ。その点は非常に気に入っているし、私のわがままを聞いてくれる担当以外の編集者が、君しかいないという事実に私は大変感謝しているのだよ」
「そうですか」

 目的地はそう遠くなかったが、道が混んでいた。

「佐々木君。私は別に創造だとか、そういった概念で物を書いていない。私が文章を書くのはね、嘔吐なのだよ。君たちや世の中がありがたがって価値をつけているのは、私の吐瀉物なんだ。私はどうにもそれを吐き出さずには生きていられなくてね。ペンネームの永井が『話が長い』というところから来ているなんてことは自分でも公言しているが、世に出しているものが吐瀉物であるなんて話は、伊藤さんと君にしかできない。失礼が過ぎるからだよ。私は奇妙で狂った人間なのだが、常識がある。常識的な行動に身を委ねることはできないが、常識的な価値観でこの立場を守ろうとはするのだよ。こう見えてそれがたいして苦しくないんだ。何故って、やはり守っているからだろうね。そして割と守れてもいる。実績がある」
「先生、のどは乾いてませんか?」
「カラカラだよ。そこに見える、おそらく私に渡すために用意したミネラルウォーターを、私に寄こしてほしい」

 永井は佐々木からミネラルウォーターを受け取ると、ひ弱な筋力でキャップを開けて、一気に半分ほど飲んだ。

「私はね、吐き出しても吐き出しても、腹の底から何かが湧いてきてしまう。大したことをしていもいないのに、湧き続けてしまう。だがね、それを一気に文字で吐き出したとしても、それが常に今自分が書きたいものだとは限らないのだよ。本当にどこにも出せない吐瀉物であることもままある。今日の朝はまさにそれだった。このままではいけないと思った。何せ、私には常識があるのだから。原稿には締め切りがあるじゃないか。佐々木君、私が原稿の締め切りを守れなかった話を、かつて聞いたことがあるかね?」
「はい。何度もあります」
「そうだったね。私は締め切りを守らない人間だ。ただ、守ろうとはしている。それも毎回だ。毎回守ろうとしている。守れなかったことを悲しまなかった日は一度足りともない。だから守れた喜びのようなものを、予め未来に予想して、そこに立てて、そこに進んでいこうとしている。私は私のことをとても屈強だと思っている。私は一度たりとも、諦めたことはないのだから」

 程なくして目的地の動物園に着いた。佐々木は門の向かいにある駐車場へ向かおうとしたが、永井がそれをカーナビの時のように制止した。

「着いたね。佐々木君。このまま君は駐車場に入ったり、私に同伴して園内を闊歩したり、そういうことは一切しなくていいのだよ。私をこの入り口で降ろした後、君は街中かどこかをぶらぶらしていてほしい。海に行く時間もあるだろう。私は今現金をたくさん持っているから、生涯お金持ちであるから、食べきれないほどのホールケーキをいつでも買うことができるから、今ここで君に3枚の諭吉をプレゼントする。君はこれを受け取ったならば、あとは幾らかの時間を自分なりに消化しながら、その諭吉を好きなように使いながら、私の連絡を待つんだ。佐々木君、私はね、また君が運転するこの車で、好きなときに家に帰りたいと、強く思っているのだよ。もう半信半疑ではない、八信二疑だ。では」

 永井は佐々木の返事も待たずに助手席から降りて、強くドアを閉めたあと、動物園の入口へと歩いて行った。永井が次に出した本は、これまでの本より売れた。

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