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【短編小説】バス停の行列

※以前に書いた以下の物語と同じ世界の話です


 市営の美術館で行われている名も知らぬアーティストの個展を出版社勤務の編集者はゆったりと眺めていた。毎度待ち合わせの時刻に大幅に遅刻してくる作家との約束の時間はまだ過ぎたばかりだったので、編集者の頭の中にある『実質の』予定では、待ち合わせの完遂はまだ少し先の時間になるはずだった。

 編集者はその広い館内に展示されている幾多の理解不能な作品の中に唯一自身の感性に触れる謎のオブジェを見つけると、そこで足を止めて何を考えるでもなくそれをじっと見つめていたのだが、ポケットのスマホが予想外に長く震え始めたことによって、その場そのときから離れざるを得なくなった。館内での電話は基本的に禁止されている。

「もしもし。伊藤さん、じゃなかった、佐々木君。私の勘違いでなければ、待ち合わせの時間は過ぎているようだが……」

 急ぎ足で館外に出て着信に応対した佐々木は、普段から絶対に待ち合わせの時間通りにやってこない作家が電話口でそう言ったことについて『人柄を疑う』ような気持ちを持ったりはしなかった。これまで幾度となく行われてきた作家との交流の経験が、何もかもを納得させる材料になってしまっていたのだ。

「すみません永井先生。少々道が混んでいまして、20分ほどかかりそうです」

 基本的にバカ正直な性分であるはずの佐々木が平然としたトーンで嘘を吐いた。これまで幾度となく起こされてきた『永井に長い時間を待たされる』というイベントが、彼をそうさせる材料になってしまっていたのだ。
 佐々木は罪悪感ゼロのまま、その足で颯爽と駐車場に向かい、自家用車のセダンのキーを開けて運転席に乗り込んだ。そして電話をハンズフリーに切り替えたあと、車内の蒸し暑さに残暑を感じながらエンジンをかけた。

「それならば仕方がない。大丈夫だ。ところで佐々木君。今、エンジンをかけたね」
「はい」
「エンジンと言えばね、今日私は久々にバスに乗ったのだよ」

 佐々木はうっかり自分の嘘がバレてしまうかと危惧したが、杞憂であった。同時に、用件が済んだはずの永井がすぐに電話を切らない理由が、そのペンネームの由来にもなった『長い話』をこれから始めるからであるということも、すぐに察知できた。

「私の最寄りのバス停には、信じられないほど多くの人がいた。私は普段バスに乗ることがないので知らなかったが、明らかにそこにいる人だけで1つの車両が満ちてしまうだろうというほどに多くの人が行列を作っていたのだよ。佐々木君、君はバスに乗ることがあるか?」
「あまりないですね」
「そうか。あれは人の乗るものではない。私はその行列の最後尾に、気乗りせずに並んだ。並んでしまった。行列の長さとそこに並ぶ自分の位置を考慮すれば、次に来るバスには自分が乗ることができないだろうと、そうわかっていたにもかかわらずだ。何故なら他に手段がない。私はバスに乗りたくて、数ある手段の中から好みを優先した結果バスに乗るわけではなく、現時点でとれる交通手段がそれしかないから、仕方がなく、バスに乗ることを選んだだけだった。無論、これは行列がなければそう感じることすらもなかっただろう。我々人間というものはね、不便の中に置かれることでしか自分の本心に気付かないのだよ」

 佐々木は『今日はおそらく、そこまで急がなくても大丈夫だろう』と思ったので、信号待ちの合間にカーナビをいじることをやめた。

「それでだ。数分後にバスが来た。そのバス停は始発ではないから、やってきたバスにはすでに幾らかの人が乗っているわけだ。横を通り過ぎていくそれを見ればわかった。私が当初思っていたよりも、行列の減り具合は少ないだろうということが。現に前から人が乗り込んでいって、行列の半分ほどで先頭の人間が諦めた。そしてバスのドアがブザーと共に閉まり、私はまだ長いと言えるその列の最後方からバスの背を見送ったのだよ。私はね、そのとき、次のバスの背も見送ることになるかもしれないと思い無性に腹が立った。一体これは何の時間なのだと。普段からバスを使っている人たちは、こうして毎日腹を立ててバスの背、いや、尻か。それを見送っているのかと思うとゾッとしてしまった。私はやはり待つことがとても嫌いなようだ」
「すみません、待たせてしまっていて」
「いや、違う。こちらこそすまない。今のは間の悪い発言だ。今この状況について私は文句を垂れているわけではないのだよ。人間と待ち合わせる時間というものは、バスを待っている時間とはまただいぶ異なる」

 永井の話が途切れなさそうな気配を醸し出していることに安心した佐々木は、通話中のスマートフォンを胸ポケットに入れ、すぐ近くの自動販売機でお茶を買うために車を路肩につけた。

「何においてもそうだと思うのだが、待つというのはその先の報酬がなければ耐えがたいものだろう。テーマパークのアトラクション、美味しい食事を出す飲食店、恋人との待ち合わせ、おおよその『待ち時間』には大抵その先に褒美がある。しかしながら、バスを待つという行為にはそれがない。行列の先頭に自身が立った時に得られる感情は喜びではなく、安堵とも期待とも違う、形容しがたい『溜息』を生む何かだ。もしも私がバスに乗るという行為そのものに喜びを感じる人間であればまるで違う想いを抱くのだろうが、そうではないしそうはなれないし、日頃からバスを利用する人々も皆同じではないかと私は思うのだよ」
「たとえば、待っている時間で目的地まで歩けたかもしれない、とは思いますよね」
「その通りだ。ただ、それで歩くことを選択した人間は大抵後悔する」

 佐々木は自販機の取り出し口から出てきたペットボトルのお茶を手に取ってすぐその蓋を開け、一口だけ飲んでは蓋を閉めて再び運転席へと乗り込み、ドリンクホルダーに通話中のスマホを置いてシートベルトを締めた。セダンは都会のアスファルトをまた走り出す。

「何故かというとだね、待つのが嫌だから歩くというのは大して問題の解決にはなっていないからだよ。歩けば疲れる。歩いて疲れることはただじっと待ってさえいれば訪れないデメリットだ。そして元々報酬のない待ち時間が報酬のない徒歩時間に変わっただけで、得られるものは同じ『目的地への到着』なのだから、実際は歩くことで待つよりも相当早く到着しない限りはおおよそ無駄骨なのだよ。ただそれは、実際に歩く前には何故か想像できない。行列の最中にいながら少し先の未来に不安を持っている人間の想像力は相当低くなるからだ。考えてもみてほしいが、最悪歩けばいいという選択肢を何のデメリットもなしに取れるならば、最初から歩く選択肢を想定のうちに入れておくだろう、そう思わないかい。待つということによるストレスのせいで唐突に思い浮かんできたそれは、実際は投げやりな感情の末の無鉄砲であって、閃きでも打開でも解決でもないのだよ」
「だから先生は待ったんですね」
「いや、私は単純に歩くことが大嫌いだから待っただけだ。歩くのが一番嫌いで、待つのがその次に嫌いで、バスに揺られるのがその次に嫌いなのだよ。私は嫌いなものの中から順序をつけて最も嫌な気持ちにならないものを選んだだけに過ぎない。ところで、佐々木君はあとどれほどでこちらに到着するんだい」

 佐々木はカーオーディオに表示された時計を見た後、左腕の時計にも目をやった。

「おそらくあと10分程かと」
「そうか。バスの待ち時間に比べたら大したことはないな。人間はね、それをすることで到底問題の解決には及ばないとわかっていることでも、ときに意気揚々としてまでそれをしてしまうことがある。たとえば今私が君に到着時間を尋ねたようにだ。それを尋ねたところで、君の到着時間が早まるわけでもないのにだ」
「本当にすみません。急ぎます」
「違うのだよ、再三言うが、責めているわけではない。これほどの時間を待つことはまったくもって苦にならないし、私はこれまでに幾度も君のことを常識の範囲を超えたところで待たせた経験がある。それに対して私は後ろめたさをもっているのだから、たまにはこういうのも悪くはないのだよ」

 永井に『人を待たせている』という自覚があったことに少し動揺した佐々木は、飲もうとしたお茶のボトルのキャップを足元に落としてしまったので、多少の運転の揺れでは零れないだろうという残量になるまでお茶を飲んだ。

「ああ、そういえば今日は要件を告げていなかった。私はね、先日市営の美術館で行われている、名も知らぬアーティストの現代アートの個展を見てきたのだよ」
「そうなんですね」

 佐々木は更に動揺を重ねてしまったが、安全運転だけは崩さないようにと集中した。

「私は基本的に絵画などの芸術作品が好きではないというか、理解ができなくてね。作家という芸術畑の立場に身を置く人間としては致命的な問題なのかもしれないが、事実そうなのだよ。ただ、理解ができなくても興味は多少あるので足を運ぶことはままある。先日は別の用事で外出している最中のことだった。たまたま通りすがったのだよ。予約もなしに病院に行き、およそ2時間は待たされると言われて仕方なくそのあたりをプラプラしようと考え病院から出た矢先に、すぐ近くのそれが目に入った。ああ、また待ち時間の話で申し訳ない。私はその日、本日と同じように報酬のない待ち時間にたいそう不機嫌になっていてね。目的地まで歩くことを選ぶかのような投げやりな気持ちに気付かず、それを『ちょうどよかった』などと思い込んで、何故か楽しめると確信をもったように思い込んで、入場券を購入して館内を闊歩した」
「そうなんですね」

 佐々木は寡黙な男ならではの相槌を返したが、それは性格からではなく、少し時を遡った頃の自分自身の説明をされているようでもどかしかったことが原因だった。

「結論から言うとだね、『私は何をしているんだ』とだけ思った。明らかに『犬』というタイトルがつけられて展示されているものが、棒だったのだよ。あれは明らかに棒であった。見方によっては犬に見えるだとか、何か仕掛けがあってそれをクリアすると犬に見えるだとかではなく、ただ普通に棒だったのだよ。概念の話でもしているのかと思ったが、やはりタイトルは『犬』であった。あれは犬らしい。私はこれについて正確な情報を君に伝えることができない。君は今、こいつは何を言っているんだと思っているはずだ。棒が犬なわけがないだろうと。だがしかし、棒が犬だったのだよ。それは間違いのない情報だ。私の気は狂ってなどはいない。そしてね、絵画もいくつかあった。しかしながら、まったくわけがわからなかった。抽象画というやつなのだろうか。私には明け方のテレビに映る電波テストの怖い画面か、2歳や3歳の子がすべてのルールを無視して完成させた塗り絵にしか見えなかった。そして聞いて驚くと思うが、その絵画のタイトルもまた『犬』だったのだよ。このアーティストには一体犬が何に見えているのだろうかと真剣に思い悩んでしまった。そして館内の作品をひとつひとつ見ていくとだね、なんと展示されているすべての作品のタイトルが『犬』だったのだよ。信じられなかった。そこは『犬展』だった。私はそれまで、ただの1つも犬を見ていないというのに。まったくもって理解不能だ。こんなもの、火を点けて全て焼き払ってしまえと思ったよ」
「わかります。私も似たような経験がありますから」

 普段はそれなりの相槌しか打たない佐々木が思わず本心をこぼしてしまった。1年ほどの付き合いになる2人の成人男性が初めて強い『共感』という感情で結ばれた瞬間だった。

「ただね、たった1つだけ、犬があったのだよ。網状のオブジェのようなものだ。あれは他のものに比べて、圧倒的に犬の姿形をしていたのだよ。無論、単体でそうと理解することは難しい。しかし、これまで幾度も『犬』と書かれた『絶対に犬ではない何か』を散々見せつけられた後であれば、ようやく犬に見える程度の何かだ。私は館内の隅のほうにあるそのオブジェの前で立ち止まり、それをまじまじと見てしまった。無論『私は何をしているんだ』という感情は全く消えてはいなかった。ただそこで立ち止まるきっかけを不意に貰ってしまっただけで、私には何もかもが理解できていなかったし、2時間をここで潰せと言われたらまったくもって無理であるとすぐに結論が出てしまう、そんな状態でオブジェの前で立ち止まっていた。もしかしたらここまでが策略だったのだろうかなどともそのときは思ったりもしたのだが、美術館から出てしばらくもすれば、そこで見た作品はもう脳内に浮かんでくることはなかった。そして、こうして『後悔だけした』というエピソードだけが残ったのだよ。ただ、私はまだそのときのことを、報酬のなない待ち時間にイライラした状態で、無鉄砲に訪れた場所だったからこそ、そう感じたのではないかと疑念を抱いている」
「先生、着きました」
「そうか、どのあたりにいる」
「KTビルディングと大きく書かれているビルの前に停めています」
「あれか、確認できた。すぐに行く」

 電話を切られた後、佐々木は運転席から目を凝らしてこちらに向かってくる永井を視認した。相も変わらず寝ぐせ頭の黒縁眼鏡であったが、本日は初めて『待っていた永井』を見ることができたので新鮮に感じた。

 永井は早歩きで車に寄ると、助手席のドアを開けて乗り込んだ。

「お待たせしまた。すみません」
「気にすることなどはないよ。さて、話の続きだが。どうだい、今日はその『犬展』を、あえて報酬に据えたうえで見に行かないか。無論、かかるお金についてはすべて私が持とう。初回には得られなかった気付きのようなものを得て、私の執筆意欲がきっと刺激される、そんな気がするのだよ」
「是非ともお願いします」

 佐々木は直ぐに車を来た道に走らせた。永井は待ちくたびれていたからか、彼が何故道も調べずに車を出したのかについて問うことはなかった。

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