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【短編小説】茶碗蒸しの筍

※以前に書いた以下の物語と同じ世界の話です


 BGMの流れない喫茶店ではブレンドを啜る音だけが響く。約束通りの時間には決して現れない作家をそこで待つ編集者が何一つ苛立つことなくコク深い味わいに寛げていたのは、数時間前にその作家から与えられた『お小遣い』で懐が多少温かくなったことが理由だった。店内に他の客はいない。そんな16時半のことだった。

 カランコロンと鳴る入り口の小さな鐘の音が、編集者の長い長い待ち時間を終わらせた。ブレンドは2杯、ケーキは1つ、オムライスは1人前だった。
 作家はおよそ常識的な中年男性とは思えないボサボサの寝ぐせ頭を少し搔きながら、その黒縁眼鏡ごしに店内を静かに見渡して編集者の姿を捉えると、やや早歩きでその席まで向かい、無言で編集者の対面のソファに座ってその口を開いた。

「すまない、佐々木君。だいぶ待たせてしまった」

 眉間に皺を寄せ、テーブルに肘をつき、2本の指で眉毛を触りながらそう言った作家は、テーブルの上にある手書きのメニューには一瞥もくれることなく店員を呼び出してはアイスココアを注文し、それでようやく肩の力を抜いた様子になり、背もたれを使い始めた。

「永井先生はこの店に来られたことがあるんですか?」

 佐々木は長い時間を待たされたことについては何も感情を抱いていなかったので、サラリーマンとしての矜持を忘れずに、念のため用を終えて移動してきたばかりの作家に気を遣って、塩梅の良さそうな質問を投げかけた。

「いや、初めてだ。アイスココアがなければオレンジジュースでもよかったし、リンゴジュースでもぶどうジュースでも、何ジュースでもよかったのだよ」

 永井がテーブルの上にあるコーヒーカップをじっと見つめながらそう述べたことを佐々木はわかっていた。この男は今はとにかくコーヒーの気分ではないということを汲み取りつつ、ならばフルーツパーラーで待ち合わせばよかったのかもしれないなどと、次回以降の参考になりそうな情報について、佐々木は少しだけ思考した。
 一方対面の永井は佐々木の気遣いを汲み取る素振りもなく、言葉を連ねた。

「久々の水族館だったんだ。とても楽しかった。伊藤さんは私の担当のくせに今日も忙しく構ってくれなかったのだが、こうして佐々木君が送り迎えをしてくれることのありがたさも身に染みたよ。送り迎えだけさせて館内は1人で闊歩するということは大目に見てもらうとしてだね、そうだ、やはり家の中にずっと引きこもっていてはいけない、それでは決していい作品を書くことはできないとまでに思ったのだよ。私にとってこれは子供の遊びのように無邪気に楽しく、作家としては必要で重大なイベントであった。ゆえに、こうして帰りの待ち合わせには、遅刻してしまったのだよ」

 佐々木は永井の話がペンネーム通りに『長い』ものになるのだと此の時点で察し、その内容がおそらく遅刻の言い訳のようなものであるとわかったので何も考えずにとりあえず聞くことにした。

「ここの水族館は何が良かったのかと聞かれたら、何もかもが良かったと言わざるを得ない。入り口では大きな大きな水槽とその青さに圧倒され、中を泳ぐ魚たちが一体なんという名前の魚なのだろう、どんな生態なのだろう、ルーツは一体なんなのだろうなどと想像を巡らせるところから始まった。そうして想像を膨らませる間を待つこともなく、展示されている文字の情報を眺めてしまって想像が中止されるところまでがああいった場所の醍醐味なのだろうね。私はそうして平凡に、悠長に、ただただ水族館というコンテンツを楽しんできたわけだよ」

 店員がアイスココアをテーブルに持ってきたので佐々木は会釈をした。永井は店員に対しても一瞥もくれることなく、視界に入ってきたアイスココアをすぐに手に取ってマドラーでかき混ぜ始めた。その氷がグラスとぶつかるの音だけが、BGMの流れない店内に響く。

「私はね、美術館や水族館、動物園や博物館なんかもそうなのだが、動線をとても気にする。足元やパンフレットに示された順路をまずは疑うのだよ。佐々木君、君にはそういった感情があるかね?」
「いえ、全くないですね」
「そうか。君は君であって私ではないから、話題のベクトルがここで共感に変わってしまってそのスピードを緩めてしまうことがないという事実に私はとても安心した。とにかく、私はいわゆる『館内』や『園内』に入るとき、可能な限り自分で最も良いと感じる動線を辿りたいと考えているのだよ。今回はそれが仇になってしまった。私は日ごろから油断だらけだ」

 永井はアイスココアのグラスにストローを差し、口の中を甘く潤した。

「なんだか氷が多いな。まあ、それでだね。私は今回たまたま気の迷いが起きてただ順路に従うことにし、順路で言う始めのほうにアザラシを見たのだよ。プールの中を優雅に泳ぐアザラシをだ。ただ、順路の始めのほうで足を止めると全体の配分に影響を及ぼすと感じたので、少しばかり流し気味に見たのだよ。特に入り口付近は混んでいるからね。そうやって次へ次へと進んでいって、定刻開催のイルカショーを見て、その後にやたら照明の暗いゾーンに入り、そこでタコに目が留まった。正確に言うとタコではなく、タコがいた水槽にだ。それは小さく、そして近かったがゆえに、私は気付いてしまった。佐々木君、私は一体何に気付いたのだと思う?」
「ちょっとわかりませんね」
「大丈夫だ。それを期待していた。すぐに話を戻そう。私は水族館に対して漠然と『綺麗』というイメージを抱いているタイプなのだが、思ったよりも、そのタコがいた水槽が『汚かった』ということに気付いてしまったのだよ」

 佐々木はまだ温かいブレンドを啜りながら、永井に気付かれないように一瞬だけ壁の時計を見た。

「私はね、水族館というある種幻想的な場所において、何かが『汚い』などいうことに着目するのは決して本望ではない。だがしかしだ、見てしまったら、見えてしまったら、こう考えたりはしないだろうか。これまでの順路で見てきたものは、よく見たらどこかが『汚かった』のではないだろうかと。そう考えたら、半ばを過ぎて後半に差し掛かっていた順路を改めて、再びすべてを見ることにし、その動線を描くしかなかった。そうするとだね、不思議なもので、先程までの心情ではまったく見えていなかった、ありとあらゆる『汚さ』が見えてしまって、とてもとても面白く感じたのだよ。始めの方に見たアザラシも、ただただ優雅でキューティーであったと思ったが、陸に上がったときのボサボサした毛並みや、奥の方で何もせずにふてぶてしく寝ているだけのアザラシの表情は紛れもなく『少しだけ汚かった』のだよ。私はね、なんだかそれを見つけた時にすごく嬉しい気持ちになったというか、痛く感動したのだよ。思えば性分通り、順路などを守らずに、思うままにパンフレットをもとにオリジナルの動線を描いて、その通りに館内を進んでいれば初めから水槽の汚さには気付いていたのかもしれない。だが、一度気付かずにスルーしてから、改めてそこに辿り着く、それが良いスパイスになったのだろうと私は思っている。というよりは、そう確信している。そして私はその感動に胸を躍らせたまま、15時には君の待つここに来なければならないという予定のことを決して忘れぬまま、15時から2度目のイルカショーを見たのだよ。大変申し訳なかったと思っている」
「全然大丈夫ですよ。先生、サンドイッチを頼もうと思うのですが、ご一緒に食べませんか?」
「是非、頂こう」

 佐々木は店員を呼んでBLTサンドとハーブチキンサンドを注文し、その際には永井のグラスの中のアイスココアが異様に減っていることにはあえて言及しなかったが、永井が自分自身でそれを注文したことによって数分先のテーブルの秩序は保たれた。
 永井はその残り少なくなったアイスココアを、マドラーでぐるぐるとかき混ぜて氷のカラカラという音を鳴らしながら、更に言葉を連ねた。

「今回の水族館は完璧に楽しめた。さしずめ96点といったところだ」
「完璧なのに96点なんですね」
「そうだ。何事も100点満点というのはね、あまりにも抜かりがなさ過ぎて印象に残りえない。いわば96点が実質の100点になるのだよ」
「ミロのヴィーナスの腕のようなものでしょうか」
「君は絶妙に良いところを突いてくる。だが、あれとまた違うのだよ。あれはいわゆる『欠損そのものが持つ美しさ』だ。パラメータの足りなさが持つ愛しさや、欠点を許容する心の機微の奥ゆかしさではなく、もっと芸術的な感性などの観点であって、私が言うそれとは異なっている」

 BGMの流れない喫茶店では厨房でチキンに焼き目をつける音が響く。

「こんな話がある。というか私自身が体験したことなのだが、それによって私の言いたいことが君に確かに伝わると思う。佐々木君、茶碗蒸しは好きかね」
「比較的好きですね」
「だろう。茶碗蒸しは多くの人が『比較的好き』だ。機会があればこぞって食べるし、機会がなければその存在を忘れてしまうし、ないと思っていたのにあったならば相当嬉しい、そういうものだ。それでだね、先日ディナーを和食屋でとっていたときのことなんだが、メニューに茶碗蒸しがついてきたのだよ。その店は価格帯で言えば安くもないが高くもないという普通のお店だったが、味も素材もくちどけも、茶碗蒸しの出来栄えは他のどんな店よりも良くてとても印象に残ったのだ。嫌味ではないのだが、私はご存じの通りベストセラー作家であるがゆえにお金をたくさん持っているので、いわゆる高級な店に足を運ぶことが多い。この私がそう言うならば間違いないと、そんな自負さえある。それほどまでに完璧だった」

 テーブルにBLTサンドが運ばれてきても永井が話に区切りをつけなかったので、佐々木は黙って運ばれてきたそれを手に取って、挟まれてる『BLT』をこぼさないようにして食べながらその続きを聞いた。

「ただね、佐々木君。私が何故それをここまで、100点満点では印象に残らないなどとほざくこの私が、こんな風に思い出して例に出してまでその話をすると思う?」
「何か欠点があったんですね」
「その通りだ。その茶碗蒸しにはね、『これで食べなさい』と添えられた小さな小さな木の匙がついてきたのだよ。赤ん坊か子猫のサイズにぴったりだろうというほどに、小さな匙だ」

 永井は自分もBLTサンドを手に取り食べ始めた。トマトがテーブルに落ちたが、それに気付いていたのは黙々とサンドイッチをほおばる対面の佐々木だけだった。

「その茶碗蒸しにはね、しいたけ、三つ葉、鶏肉、銀杏、筍が入っていた。何か特色がある茶碗蒸しであったわけではないが、とにかく美味しかった。美味しかったのだが、一つだけ疑問点があった。それは筍の切り方だ。しいたけも三つ葉も鶏肉も銀杏も、添えられていた小さな木の匙で掬うには最適なサイズをしていた。実際にそれで掬って問題なく口の中へ運ぶことができたが、筍だけは少し違っていた。細切りにされた筍は、とてもじゃないがその小さな木の匙で掬うには些か大きかったというか、長かったのだよ。添えられていた匙で掬おうとすれば、口へ辿り着く寸前よりも幾分か前に、たちまち元居た茶碗の中に戻っていってしまうような、そんなサイズ感であった。私は現に筍を茶碗に二度は落とした。なんという難儀な筍なのだと、そう思うしかなかった。もちろん慎重になれば十分にこぼさずに食べられるサイズではあったのだが、そのときの私は茶碗蒸しを食す40歳男性ではなく、茶碗蒸しの具材の筍をこぼさないチャレンジに身を投ずる40歳男性になっていた。そこで起きている現象は、すでに細長い筍と小さな木の匙によって大きく変えられていたのだよ」

 永井はテーブルに落としたトマトをチラッと視線をやった後、すぐに手で掴んで口の中に放り込んだ。

「ただね、佐々木君。私はそうやって、美味に舌鼓をうった直後に感じた『面倒』を酷く愛する男だった。あれがあったからこそ、私はその店の茶碗蒸しがとても美味しく、他の店では食べることができないと言い切れるほど完成されたものだという印象を持つことができたのだと思う。私は今ね、小さな木の匙を見るだけで、あの茶碗蒸しの味と、どうしてだかそこにだけ気が行き届いていない筍の切り方への些細な苛立ちを思い出すようになったのだよ。こういった形のものもパブロフの犬の一環なのだろうか。私はあの和食屋に嵌められたと、そう思うかね、佐々木君」
「全然思いませんね」
「私もそうは思っていないよ。ただやはり、この話は先程までいた水族館の『汚さ』に通ずるものがある。私はね、ただ漠然と『良い』と思うものが、その印象のまま私の人生という時間をキラキラとしたまま通り過ぎていくことに疑問を持つのかもしれない。それらが本来抱えている、ちょっとした『悪さ』を目に留めたいという願望があるのだと思う。だから私は結果的にそれのために順路に逆らったし、イルカショーを二度も見た。きっと私はこれからもそうやって生きていくだろう。だから遅刻のことは、大目に見ていただきたいと思っている。いや、悪いとは思っているのだよ。ちなみに残念ながらというか、残念に思える余地がないほどイルカショーは素晴らしかった。私は動物がとても好きだからね」

 テーブルにやってきたハーブチキンサンドがその香ばしさで小さな席という空間を満たした。BGMの流れない喫茶店に響く、編集者の佐々木にとっておおよそどうでもいい永井の話が、ただそこにある食欲で繋がれる。

「そしてだ。そしてだよ、佐々木君。このアイスココアはとても氷が多い。さっきから私はこのアイスココアについて美味しいだの甘いだのという感想を持つと同時に、それと同じくらい氷が多いという感想を持たざるを得なくなっている」
「でも先生からしたらそれは『在るべき欠点』ではないのですか?」
「それはね、96点だからこそ、いいのだよ。50点や60点じゃとても話にならない」

 佐々木はサラリーマンとして優秀な男だったので、永井の声のボリュームが大きくなる前にと、温くなったブレンドを飲み干して、目の前のサンドイッチを瞬時に全て平らげて立ち上がった。永井はその様子を怪訝そうに眺めるしかなく、眉間に皺を寄せながら、テーブルを綺麗にした佐々木の顔を見つめた。

「佐々木君。私はまだ、ハーブチキンサンドを一口も食べていないのだが」
「先生、その茶碗蒸しのお店、今日やってますか? あまりにも行きたくなったので、連れて行ってもらえませんか」
「うむ。それは良い提案だ。私は今、ちょうどそんな気分になったところだったよ。ただ、そこは和食屋であって、茶碗蒸しの店ではないのだがね。ここもそこも、私が持とう。引き続き運転を頼むよ、佐々木君」

 永井は微笑みながらそう言って懐のマネークリップから一万円札を抜き出してテーブルに置くと、まだ口の中のサンドイッチの咀嚼に忙しい佐々木をそこに残したまま、入り口の小さな鐘をカランコロンと鳴らしてそそくさと西日のドアの向こうに消えた。

 喫茶店の店主はそれを見届けた後、店内にしっとりと響くようにクラシックをかけ始めた。

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