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【短編小説】水辺の猫

 圧縮していただけだった。その広さに限りのある『心』という空間に、喜びや幸福感という動き回ったり膨れ上がったりする感情が居座れるようにと、水を全て抜いてカラカラに圧縮して隅の隅に退けていただけだったのだ。それがかつて私の心の全てを占拠していた悲しみであり、苦しみだった。私は長年、頑なに水辺を通ることを避けてきたというのに。

 エアコンの風量はラジオの音をかき消すほど強く、熱の籠る黒のレザーシートは背中に不快感をもたらす。ここまでは私にとってなんてことのない、例年通りの夏であった。計画的に申請した午前休を無計画にベッドの中で過ごしたあとの蒸し暑い車内では、これから会社に向かうという身体に染みついただけの習慣以外の何かが働くことはないはずだった。

 つまりは車外に、窓の向こうにあったのだ。信号待ちの傍ら、ハンドルを握る私の視界の端に映っていたのは、街路樹のもとにぐったりと横たわる仔猫だった。息があるのかどうかは一目ではわからなかったが、私はどうしてだか青信号を直進しなかった。

 小道を曲がり、路肩に車をつけて再び炎天下に降りる。私は自然と駆け足でそこに向かい、仔猫を抱き上げていた。まだ息がある。外傷がないことは確認できたが、衰弱の原因はこの場では判断できない。水分は自力で補給できるのだろうか。

 かつての職業柄から瞬時に様々な思考を巡らせたのも束の間、正面から1人の女性が駆け寄ってきた。

「そこの動物病院の獣医です。野依(のより)と申します。猫ちゃん、まだ生きてますか?」
「はい、生きています。弱いですが反応も確かにあります」
「すぐに連れていきましょう」

 やりとりはものの数秒で終わり、私は仔猫を野依さんに預けて車に戻った。そして、指をさせば伝わるほど近くにあるその動物病院に向かいながら、私は会社に午後の休暇を申請した。


 仔猫は一命をとりとめた。衰弱の原因は食事が摂れていなかったためであり、疾病によるものではないことが伝えられたのは後日のことだった。
 強制給餌の回数が少なく済んだのは、仔猫自身が『生』にしがみついたからだろう。私は電話口で野依さんとそんな話をしながら、それの善悪など考える暇もなしに、只々1つの命が紡がれたことに安堵した。

「荒巻(あらまき)さん、ご都合の良い日にこちらに来ていただけますか? 猫ちゃんも会いたがってると思います」
「え、私がですか」
「ええ。今後こちらで保護などの手配をするにしても、少しでも元気になった姿を一度見ておきたいだろうと思いまして」

 私は今、水辺にいた。長年カラカラに乾かしていた、圧縮して心の隅に退けていたものに、湿り気のある風が当たってしまったことを肌で感じた。それをまた乾かし続けるかどうかを選ばなければならないときが訪れてしまったのだ。
 しかしながら、私はまったくもって迷わなかった。

「わかりました。今からお伺いしてもよろしいでしょうか」
「大丈夫ですよ。お待ちしております」

 電話が切れるのと同時に、私はかつて、動物を心から愛していて、ただそれだけを理由に幼い頃から獣医を目指して、その夢を叶えたという事実を思い出した。そして動物を心から愛しているという、ただそれだけの理由でその夢から離れていったという事実も思い出した。思い出したと言うが、忘れていたわけでない。決して見えないように、目も手も届かないところに、退けていただけであった。

 ただ、届かないところに退けていたせいで、きっと距離が掴めなくなっていたのだと思う。今こうして迷いもせず、身支度をして保護した仔猫に会いに行くという自分自身を見ればそれは明らかだ。かつてはもっと重いものであったはずなのに。
 日が暮れてさえしまえば黒のレザーシートも多少は”マシ”で、私は緩やかに心に水を注ぎながら動物病院へと向かった。



 私が仔猫を家族として迎え入れるのに、そう時間は要らなかった。『空』がリビングで元気に玩具をつついて遊ぶ姿は、あの日あのとき青信号を直進しなかった私を、私自身に認めさせた。
 『空』は玩具に飽きると、ソファに腰掛けていた野依さんの膝元に寄った。彼女はもうすっかり元気になった『空』を、膝の上で優しく撫でながら語り始めた。

「これは祖母の受け売りなんですけど、強さって、悲しさや苦しさを無視できることではなく、ありのままの大きさで受け止められることだと思うんです。それはきっと嬉しさや楽しさと同じ大きさだから、受け止められる力は元から備わっているものなんです」

 野依さんと親しくなるうちに、私は自分が獣医を辞めてしまった経緯などを洗いざらい吐き出してしまっていた。今まさに命の危機に瀕している仔猫の姿、一命をとりとめたあとの行く末、それらに向き合った自分が確かにここにいた事実がそうさせた。

「荒巻さんが耐えられなかったのは、ご自身でおっしゃる通り、弱さがあったからかもしれません。でも、優しさがなかったからじゃありませんよ。少なくとも私はそう思います」
「今の私なら、この子だけでなく、全てにまっとうに向き合えるかもしれません」
「向き合えないときは教えてください。獣医が全能ではないこと、私はよく知っていますから」

 私は、心の隅に水をやった。それをありのまま抱えながら、夏を越して元の道へと戻ってきた。

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