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【短編小説】均一かつ日替わりのジャム


 ーーメモ1 テーブルの上の青いノートを見ろ。

 アラームが鳴り響いた寝室の部屋の天井に張り付けられた画用紙に記された文章は、今しがたその音で目覚めたばかりの男の視界に入ることでその役割を終えた。それは、部屋の住人である男に小さな溜息をつかせたことを確認しては、昨日も、また明日もただそこに在り続ける。

 ーーメモ2 お前は朝起きたらまずトーストを焼く。

 男は特別だった。ベッドから起き上がりパジャマのままキッチンへ向かってトースターに食パンを入れた後、テーブルの上の青いノートを手に取り、そのページを1つ、また1つとめくり読んでいくのだが、それが80ぺージにわたる赤の他人の手書きの文章であれど、トースト2枚が焼きあがるよりずっと早く読み終えることができたのだ。

 男はノートの一番新しいページの左上隅に小さく〇をつけると、それを元あったテーブルの元あった位置に戻し、焼きあがったトーストを皿に投げるように載せて冷蔵庫を開けた。

 ーーメモ4 ジャムは均一かつ日替わりだ。

 男は甘いものを好んだ。トーストに塗るのはバターでもマーガリンでもなく、チョコレートソースや果物のジャムで、その日に塗るのがあんずのジャムであることが決まっていたのは、冷蔵庫のドアにベタベタと張り付けられた多く付箋の1枚が示していた。
 そのローテーションが崩れてしまえば、毎朝均一な量を掬って保っている『瓶の中の各ジャムの残量』における均衡が崩れてしまうからであり、男はそれを酷く嫌う性格をしていた。明日はいちごのジャムを塗る日だ。

 ーーメモ7 コーヒーは2杯。砂糖はスティックを1つ。

 男は愛されていた。男は今日も1枚のトーストを焼き、2杯のコーヒーを淹れ、自分は使わないシュガースティックを1本カップに添えてそれをダイニングテーブルに置いた。男は甘いものを好むのに、コーヒーはいつだってブラックだった。
 程なくして、男が目覚めたベッドで寝ていた女がそのリビングに姿を現し、男に軽くキスをしたあとにテーブルについた。男は、女を愛していた。

「調子はどう?」

 女はコーヒーから立ち昇る香りと温度だけを飲みながら、男にそう尋ねた。

「多分いつも通りだよ」

 男は毎朝、そう言っていた。

 ーーメモ11 朝の情報収集を怠るな。

 テレビをつけて朝のニュースを眺めることも、甘いものを塗ったトーストをかじりながら新聞を読むことも、昨晩のメールを確認して重要な事項を紙に書いて抜き出していくことも、それらすべてが男にとって必要なことであり、やむを得ず必要になってしまったことでもあった。

 ーーメモ27 今を生きろ。

 男は聡明だった。15年前に突然身に起きた不幸が今も尚その生活に影響を与え続けていることを、決して困難としなかった。
 自己を理解するにあたって、自身の生活を成り立たせるにあたって、人生を幸福と呼ぶにあたって、男がとってきた数々の選択にはおおよそ間違いがなかった。

 後頭部の古傷が痛むことはあれど、男は今日も労働に身を委ね、生活資金を稼ぎ、家に帰れば趣味のバイオリンを弾き、恋人とともに明日を迎える毎日にただただ幸福を感じて生きることができていた。たとえその日々が記憶に刻まれていなくとも。

 ーーメモ20 お前は明日の朝、昨日を忘れる。

 15年前に男を襲った不幸は、悪意であり暴力だった。宅配のアルバイトで訪れた家で殺人事件が起き、男はその現場に運悪く居合わせてしまった。
 今もなお逃亡を続けている犯人が、目撃者である男の頭部を鈍器で殴打したのだ。男は意識を失い、病院で何日も生死の境を彷徨っていた。

 昏迷から目が覚めた男の様子がおかしくなっていたことは、その場にいた家族がすぐに察した。目が覚めたことを聞きつけて図々しく病室まで駆け付けた警察官も、それには完全にお手上げだった。男から目撃証言を引き出すことが叶わなかったのだ。
 脳に負った傷によって、事件の記憶を失ってしまったうえに、男は新しい記憶を刻むことができなくなってしまった。前向性健忘という重度の記憶障害を負って、男は明日を生きなければならなかった。

 ーーメモ74 障害は取るに足らない。これはお前だけの幸福。

『あなたは今後、新しく何かを覚えることが出来ないかもしれません』

 医師が男に伝えた言葉は、男を絶望の淵に落としただろうか。男はそれを理解することができなかった。落としたこともあったのかもしれないが、それは全て忘れてしまうからだ。
 男は忘れたくないことをメモにしたが、そこに絶望の片鱗は存在していない。その理由、真実が今では闇に葬られていることを男は海よりも深く理解したので、いつしか考えるのをやめてしまっていた。
 男はただただ、これから自分がどのように生活をしていくのかを、建設的に考えていた。男は冷静だった。男は毎日メモやノートをひたすら書き記す生活に身を投じ始めた。

 ーーメモ49 お前は”昨日を忘れてもいい職場”で汗を流している。

 男は優秀だった。男には事件以前の記憶と習慣があった。男はもとより生真面目で、勤勉で、平坦で、誰よりも黙々とレンガを積める性格だった。
 事故以降には後天的なサヴァンの所見と診断された突出した処理能力を脳に宿し、それが生来の性格と相まって、男はその日その日の作業を誰よりもスマートにこなした。
 たとえ昨日のことを忘れてしまっても何ら問題のない、その日に始まってその日に終わる作業をただひたすらとこなしていた。

 男にはすでに疑問がなかった。明くる日と繋がりを絶たれたのは、記憶であって事実ではない。その認識が男を支え続けることができた理由は、無心にレンガを積める性格なのかどうかは男だけが知っていた。
 単純労働のスペシャリストは、障害故に地位を得ることは叶わなかったが、障害故に多くの信頼を勝ち取ることができていた。

 ーーメモ70 愛するものを守れ。

 男は時間を守った。日が沈めば労働が終わり、労働が終われば家に帰る。繁華街の酒盛りの音にも魚のスープの香りにも足を止めることなく、男はただ真っすぐに、吸い込まれるように家に帰っていく。
 明かりのついた自宅を目の当たりにして、あと数時間後に眠りと共に消えてしまう今日のことをほんの少しだけ惜しみながら玄関を開ける。

「おかえりなさい」

 男は笑顔になった。15年の歳月をともに過ごしてきた女を、まるで昨日今日出会った初恋の相手かのように見ることができる幸せをいつまでも享受できることに幸福を感じ、もとより1人ではどうにもならなくなった人生を、手を取って引っ張ってくれた事実が毎日胸を打った。

 ーーメモ26 覚えていたって、忘れていい。

 男は察しが良かった。その晩、女の面持ちが神妙であったことに気付くに要した時間は、手から滑り落ちたコインがアスファルトに弾かれるまでのように限りなく一瞬だった。
 まだ男は玄関に立っていて、コートも靴も脱いではいない。つい先ほどの笑顔の余韻にまだ浸ることができるというのに、その猶予はなかった。

「話があるの」

 女のその一言で、今日はきっとバイオリンを弾いて過ごすような夜にはならないと、男はそう確信して「わかった」とだけ返事とをし、靴を脱ぎ、コートを脱ぎ、リビングのソファへと向かっていった。

 ーーメモ25 苦しいのは、新しく何かを覚えられないことではない。

 女は用意をしていた。いつも時間通りに帰ってくる男が、着替えたらすぐにアイスティーを飲めるようにと、毎日用意をしていた。この日もそれは変わらず、ローテーブルにはコースター、その上にアイスティーが乗っていた。

 女はソファに座る男のすぐ隣に座り、じっと男の顔を見つめながらゆっくりとその形の綺麗な唇を開いた。

「あなたの経歴を教えてほしい」

 男にとってその言葉を投げかけられることは、15年間続けてきたリハビリの一環だった。新たな症状が起きていないかを確認すること、問題のない社会生活が送れるかを確認すること、それのために行う会話は、2者の間では日常生活の一部であった。

「僕は20歳のときに、悲惨な殺人の現場に居合わせて、犯人に頭を殴られて、意識不明の重体になって、目が覚めたらその事件のことやそれまでの生活の一部の記憶を失ってしまったんだ」

 男は淡々とそう語った。朝に読んだ青いノートは、この問答をスムーズに行うために男の経歴が書かれているものだった。
 ノートには生きていくうえで忘れてはならないことがいくつもいくつも書いてあり、男は朝起きるたびにそれを新しい記憶として自分の中に入れ続けてきた。男は今もその記録の通りに動き、記録の通りにリハビリを行った。

「そして僕は、一眠りして明日を迎えたら今日のことをすべて忘れてしまう。こんな不便な生活を、もう15年もしている」

 ーーメモ71 たとえ朝忘れても必ず思い出せるものがある。

 女は下唇を噛んでいた。それは今こうして神妙な面持ちで男に何かを話そうとしているからではなく、きっと15年間ずっとそうであった。

「今日は私の経歴を話すわ」

 男は自分が15年間で積み上げてきたはずの、毎日同じようにただ塗り替えてきたシナリオの中にはないはずの、女のその言葉に、表情一つ変えないように、変えることなく耳を傾けた。

「私は、15年前にある男を殺した」

 ーーメモ24 そうして、お前は事実に苦しみを感じるかもしれない。

 女の言葉に、男は意表をつかれたような顔をしてみせた。それがどれほど、胸の苦しさをまた新たな別の痛みをもって押し殺すような、酷く辛い行動であったことか。

「私は、当時の恋人を殺した。命の危険を感じるような酷い争いだったわ。恐怖で、あまり覚えていないのだけど、どうしても殺さなければならなかったことはよく覚えているの」

 女は男の目を見て、決して目を逸らすことなく、そう話した。男は、それに耐えられなくて、視線を落として返事をした。

「それは辛かったね。とても、とても辛い事実だ。でもどうして、今そんなことを?」
「私は、あなたのことも殺そうとしたから」

 ーーメモ23 命を狙われた恐怖がまだ心の中にあるのかを問うんだ。

 女は、男の都合などお構いなしといったように、淡々と述べ続けた。自分が恋人を衝動的に殺したこと、現場から立ち去ろうとした際に出くわした”男”を口封じのために殺そうとしたこと、その”男”が今目の前にいる男であること、運良く、運悪く、警察の捜査が難航してしまい、自分が今日まで逮捕されることなく自由に社会生活を送れてしまっていたこと。
 そのすべてに、深い後悔と重い罪悪感を持ち、もうそれに耐えうることができなかったと、胸中にあるそれを、猫が毛玉を吐き出すかのように、洗いざらい。

「今から私は、自首するの」
「そうかい」

 男は、気の利いた返事をすることができなかった。男は、いつかこの日が来るような気もしていたし、いつまでもこの日は来ないのだとも思っていた。昨日の自分が記していた数々のメモやボロボロのノートが示したことだけが、男にとって事実であり過去であり、未来であった。

 ーーメモ10 事件のことがどのように報道されるかをお前は確認しなければならない。

「私は、目撃者となるあなたが生きていることをすぐに知った。私はどうしたと思う?」

 女はローテーブルに出したアイスティーのことなど、男が昨日という一日を明くる日の朝に忘れるように、それよりもずっと早く、もう忘れてしまっている。

「僕をまた、殺そうとしたのかな」
「そうよ」

 男は、自分が何を知っていたのかわからない。15年という歳月の中で、男は毎日取捨選択を迫られていた。明日に持ち越したい情報と、そうでない情報を。それが男の明日を作り、足元を整えて、前に歩くことができる程度の道を示すからだ。男は忘れたいことを選べるという、とても幸福な選択を許された存在であった。

「でもあなたは、私にとって都合よく、事件のことは何もかもわからなくなっていた。そして毎日毎日、あなたは『今日のあなた』に生まれ変わっていった」

 ーーメモ9 必ず、お前のもとに現れる。

「僕は、君のことを愛している」
「私も」

 愛をささやきあったとて、女は毛玉を吐き出すことを決してやめなかった。いつか男に事件の記憶が戻ってしまったときに、我が身を守るためだけに男を殺そうと企てていたこと、そのために男に近づいたこと、それが15年もの間、叶わなかったこと、叶わぬ間に深く大きな愛を育てあげてしまったこと、それが大きくなるたびに、何度も犯した罪に押し潰されたこと。

 男は今日を明日に持ち越せなかった。それは事実として間違いなく身に起きた変化だ。しかしながら、男はとても強い記憶を、15年越しの今もなおずっと、その脳裏に深く刻まれたそれを、静かに静かに持ち越し続けていたのだ。それはひとつの戦いの火蓋を切り落とす形で始まったものの、毎日の取捨選択によって大きく形を変えてきたのだ。

 ーーメモ72 それはあの日一瞬で心を奪われた、目の前の美しい笑顔だ。

 男は特別だった。今日の自分を明日に持ち越せなかった。それを知って、事件当時の20歳までの記憶で生きていくために、新しいトースターが必要になった際は特別な発注をかけて、デザインをかつてのままのものとした。メモを書き続けたり読み続けたりするその生活は、この世の他の誰とも違っていた。

 男は聡明だった。それ故に、多くを知ろうとした。多くを知ったうえで選ぶことが何よりも賢明で、それこそが真実であると確信していた。『1日の幸福を繰り返すだけの人生』を受け入れた男は、その生活を確立させることに注力したが、それが済んでさえしまえば、男はあの日の疑問を、悲しくも素晴らしき出来事を、1日しか持たない記憶の不便さに苦しみながらも、追うことができたのだ。毎朝同じ量の違うジャムをトーストに塗ることさえできれば、男はいつだって聡明でいることができた。

 男は優秀だった。男は理解していたのだ。15年前、20歳のあの日、己の全てを奪われたような感覚にさえ陥った恋心が、次の瞬間に死の淵に立つ痛みに変わっていたことをまぎれもなく覚えていたし、それによって幾許かの時を経て目覚めた景色が何を意味するかを、すぐに理解することができていたのだ。
 そして自分の身を守らなければならないと強く確信していた。そのために朝起きればテレビをつけて新聞を読んで、事件当時はなかったインターネットに”毎日慣れて”でも、集められる情報はすべて集めたし、明日に持ち越した。自身が事件における唯一の参考人であったことを、あらゆる情報の中からその掌に、ペンに、メモに、しまい込んで今日を終えていた。

 男は甘いものを好んだ。甘い人生を夢に描いた。男はときに間抜けな妄想に耽ることが得意で、いつか死ぬならば美女に拳銃で頭を撃ち抜かれて死にたいとさえ思っていたが、それはあくまでも妄想に過ぎなかった。過ぎなかったが、どうしてだろうか、自分を殺そうとした女の顔がとても好みだったから、宅配のアルバイトでたまに訪れた際に顔を合わせるひとときが幸福だったから、その理由はハッキリとはわからないが、いつからそう思っていたのかも定かではないが、確かにもう一度会いたいと思ってしまっていたのだ。

 ーーメモ73 この先何が起きてもすべて忘れて、その過去に支えられてお前は生きることができる。

 特別で優秀で聡明な男は、全ての真実を導き出したにもかかわらず、いっときの甘さを享受するためだけに、惚れた女を待ち続けた。彼女は、自分を殺すために近づいてくる。自分が何かを思い出したと証言する日が来てしまう前に、必ず自分を殺しに来る。それは確信ではなくただの希望であったかもしれないが、男は確かにそう思っていた。そしてそれは間もなく現実となった。

 女は男の前に現れ、近づき、寄り添い、機を窺った。男は毎日思っていたのだ。こんなに綺麗な人だ。一度でも顔を見たら二度と忘れないような、とても綺麗な人だ。目撃証言に、間違いがあるはずがないのだから、だからこうして危険を冒してでも、殺しに来るんだと。

 『あなたは今後、新しく何かを覚えることが出来ないかもしれません』

 医師が男に伝えた言葉は、男を絶望の淵に落としてなどはいなかったと、そう思うまでにかかった時間は1年ほどだった。自分は事件のことを覚えていて、明日になれば今日のことを忘れてしまう。
 だから、明日の自分が事件のことを話さないようにずっと自分を縛りつけてさえいれば、たとえそれが自分の命を摘もうとしている人間であったとしても、ずっと傍にいてもらえると、そう考えてしまったのだ。

 ーーメモ19 たとえお前が今日、邪魔者を殺める罪を犯したとしても、気にするな。

 15年もの間、女が罪の追求から逃れられていた理由は今となってはわからない。男は、忘れている。明日に持ち越したくない記憶は、全て自ら捨ててきたのだ。女が再び自分を殺しに近づいてきたという、自らの命を守るための情報でさえも、ジャムよりも甘い妄想に耽る人生を選んで、何もかも捨ててしまっていた。

 一口も減らないアイスティーの氷が、少し溶けてカランと音を立てた。

「私は、あなたを殺す気など、とうの昔に失くなってしまった」

 ーーメモ8 お前を殺しに来る人間がいる。

「毎日を懸命に生きるあなたが、いつか何かを思い出して、この生活を終わらせてくれないかと、毎日毎日祈るようになってしまった」

 ーーメモ22 お前は命を狙われた恐怖を捨てて毎日の幸福を選んだ。

「私の悪意でこれだけ不便になってしまった生活を、不幸な顔ひとつせずに、毎日毎日働きに出かけて、笑顔で帰ってきて、それが愛しくて愛しくて、たまらなくなってしまったの」

 ーーメモ50 その労働がお前に毎日掬うジャムを与えるだろう。

「あなたのことを本当に愛している。だから、罪を償いたい」

 ーーメモ69 お前は、愛し、愛されている。

 男は、笑顔にはなれなかった。

 ーーメモ24 そうして、お前は事実に苦しみを感じるかもしれない。
 ーーメモ25 苦しいのは、新しく何かを覚えられないことではない。
 ーーメモ26 覚えていたって、忘れていい。
 ーーメモ27 今を生きろ。
 ーーメモ28 バスタオルは3丁目の雑貨屋で購入することだ。
 ーーメモ29 洗剤にこだわりを持つな。
 ーーメモ30 昨日のお前が捨てたことは今日のお前に不要なことだ。

 女は男を強く抱きしめた後、家を出ていった。見送ったその後ろ姿は弱そうでも、悲しそうでも、寂しそうでもなく、ただただ強かった。
 男は最後まで、事件のことを覚えていると打ち明けることができなかった。男にとってそれだけが、今もなお記憶だけを頼りに告げられることであったのに、最後まで何一つ、言うことができなかった。

 夜はまだ浅かった。男が今日を忘れるまでにまだ少しの猶予があった。15年の歳月よりも長い、少しの猶予だった。男は冷静だったが、聡明ではなかった。

ーーメモ3 書斎のデスク、2番目の引き出しの奥底に1発だけ撃てる拳銃がある。

 男は忘れてはならないことを15年間メモに残し続けた。それは信頼であり、道しるべであり、支えであった。それにただ従うことの冷静さを男はよく知っていたが、それを見て思考を走らせる聡明さを男は今忘れていた。

ーーメモ75 幸福を叶えられなかったとき、お前が取れる行動は『メモ3』か『睡眠』だ。

 男にはすでに疑問がなかった。明くる日とつながりを絶たれたのは、記憶であって事実ではない。その認識が男を支え続けることができた理由は、無心にレンガを積める性格ではなく、ただ甘いだけの、1人の愛する人間が毎朝その顔をのぞかせていたことにあった。

 メモ3に則って引き出しを開けて、そこにあったスイングアウトのリボルバーを手に取ろうとしたが、そのすぐそばにあったメモに気が付いたことで、手が、目が、心が、止まってしまった。

 ーーメモ2006 今を生きて。

 男は察しが良かった。おおよそ重要なことは若いナンバリングにすべて集約されていた2005枚のメモは全て自分の書いたものだったのに、これだけは筆跡が違っていた。
 それだけで、メモ3が紙屑同然になる事実が起きていることを、紙屑同然にした人間の愛情がそこにあることを、すぐに理解して、ただただ大声をあげて、涙するしかなかった。



 ーーメモ1 テーブルの上の青いノートを見ろ。

 アラームが鳴り響いた寝室の部屋の天井に張り付けられた画用紙に記された文章は、今しがたその音で目覚めたばかりの男の視界に入ることでその役割を終えた。それは、部屋の住人である男に小さな溜息をつかせたことを確認しては、昨日も、また明日もただそこに在り続ける。

 ーーメモ2 お前は朝起きたらまずトーストを焼く。

 男は特別だった。ベッドから起き上がりパジャマのままキッチンへ向かってトースターに食パンを入れた後、テーブルの上の青いノートを手に取り、そのページを1つ、また1つとめくり読んでいくのだが、それが50ぺージにわたる赤の他人の手書きの文章であれど、トースト1枚が焼きあがるよりずっと早く読み終えることができたのだ。
 男はノートの一番新しいページの左上隅に小さく〇をつけると、それを元あったテーブルの元あった位置に戻し、焼きあがったトーストを皿に投げるように載せて冷蔵庫を開けた。

 ーーメモ4 ジャムは均一かつ日替わりだ。

 男は甘いものを好んだ。トーストに塗るのはバターでもマーガリンでもなく、チョコレートソースや果物のジャムで、その日に塗るのがいちごのジャムであることが決まっていたのは、冷蔵庫のドアにベタベタと張り付けられた多くの付箋の1枚が示していた。
 そのローテーションが崩れてしまえば、毎朝均一な量を掬って保っている『瓶の中の各ジャムの残量』における均衡が崩れてしまうからであり、男はそれを酷く嫌う性格をしていた。明日はチョコレートソースを塗る日だ。

 ーーメモ7 コーヒーは1杯。砂糖はなし。

 男は1枚のトーストを焼き、1杯のコーヒーを淹れ、自分は使わないはずのシュガースティックがキッチンにあることにほんの少しの疑問を覚えたからか、きっと味覚に逆らうだろうと思いながらも、それを1本ブレンドに溶かし、スプーンでしっかりとかき混ぜて一口飲んだ。男はそれをただとても甘く感じただけだった。

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