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高価なものに魅力を感じるかどうかの話


 皆さんは、高級車を乗り回したいと思いますか?
 皆さんは、高価な腕時計を身に着けたいと思いますか?
 皆さんは、有名なブランドの服や靴を身に纏いたいと思いますか?
 それの『価格が高い』という事実が、皆さんの物欲を駆り立てますか?

 今回はそんな疑問にまつわる『ちょっと僕が理解できないもの』の話になります。

偏見と反応


 僕は『とても安いもの』にはそれなりの拒否感というか、これを買ってしまってはいけないんだろうなというか、そういった『選択肢から外す感情』が湧いてしまうタイプです。それはどうしても物を見るときに『価格』という概念からの偏見を抱いてしまうという、ただそれだけの理由でそうなっているんだと思っています。

 そして、『安かろう悪かろう』や『安物買いの銭失い』などという言葉が古くから今日に至るまで残り続けているという事実は、それが多くの人々のマインドに対して刺さっていることを証明するとともに、その言葉が『真』であることを示す他ならない根拠であるとも思っています。

 安いものは、悪いのです。これに当てはまらないものはことごとく例外であり、いわゆる『スーパー』であり『スペシャル』であり『ウルトラ』なのです。

 そしてそこからの進化なのか亜種なのかは定かではないのですが、『安いものは悪い。となれば、高いものは良い』と結論付けて高級品ばかりを買い漁るような『高かろう良かろう』というマインドを持つ人が存在するんです。それは『安かろう悪かろう』と全く同じ『価格』という概念からの偏見であるにもかかわらず、方向が違うだけで僕には到底理解ができないといったことがこの記事の主軸になります。

 無論、コスパという考え方を持ち出した上でのこともあるでしょうし、生産の過程を考慮すれば品質を下げなければ安売りができないという論理的な事実があることからそれを計ることもあるでしょう。そういった過程が結論として『安かろう悪かろう』『高かろう良かろう』となるのが道理です。

 ただ、僕が心の中に持っている『安かろう悪かろう』は、そういった『マトモなもの』ではありません。単純に『安いと感じた瞬間に悪く見えてしまう』という『反応』のことです。

 僕がその『反応A』を抱えているのと同様に、『高いものは良い』という『反応B』を抱えている人々が世の中にたくさんいるんですよ。多分、皆さんが思ってるよりもたくさんいます。僕がどうしても理解ができないのは、道理の上での『高かろう良かろう』ではなく、その『反応B』のことなんです。不思議ですよね。根源は自分の持つ『反応A』と同じなのに。


『反応B』に囲まれた日々


 詳細は惜しみもなく省略させていただきますが、僕にはかつて経歴ゆえに『お金持ちコミュニティ』と関わりの深い時期がありました。僕自身は実家が裕福なわけでもない、いわゆる『成金』だったのですが、そのコミュニティに属している人間の大半も僕と同じような人間でした。たいして信頼を置いていた相手がいたわけでもないのですが、当時はとても表面的には仲良くやっていたと個人的には思っています。

 ですが、あるとき『金銭感覚が違うのかな?』と深く感じた出来事が起きたんですよね。それは『腕時計』の話から始まりました。

 僕は洋服や靴以外のものを『身に着ける』ということがとても苦手です。なので若いころからずっとアクセサリーの類は身に着けていません。腕時計はしているだけで落ち着かなくなるし、それがゴテゴテしていれば尚のことで、高級な腕時計なんてもってのほかです。

「鯖林檎さんは時計買わないの?」

 そのコミュニティに属している一人の友人が僕にそう言いました。腕時計をしていない僕を見て何気なくそう言ったと思うのですが、その発言はちょっとした論争というか、イベントを生んだのです。

 僕は先程述べたような『身に着けるものについての感覚』を当然のように説明したのですが、共感がほとんど得られなかったんですよね。それどころか『俺もそうなんだよ!』と言った人まで『でも腕時計は買わなくちゃな』と、結果的にしっかり裏切ってきたんです。裏切って、刺してきました。

「じゃあ今から買いに行こうか!」

 その言葉が出てきて僕が腕時計を買わざるを得なくなるまでにたいした時間はいりませんでした。酷い話だ。

 唆されて、当時で言えば車の次に高い買い物をさせられました。何の興味もないものを買って嬉しいわけがないのですが、周囲の反応としては『これで俺たちの仲間入りだな。ようこそ俺たちの世界へ』といった感じですごく気持ちが悪かったです。

 当時のことを思い出すとこのように僕の中の毒が出てきてしまって話が逸れていきそうなのですが、要は彼らと僕は別の生き物だったんです。自分が生きていくうえで必要がなかったり苦手だと思っているものなんですと説明しても、『ハクがつく』『お金持ってるんだから買え』といった言葉しか出てこず、とにかく『高いものを買うべき』という『反応B』持ちの人間としての意見だけが返ってきたんですよね。まるで違う国の言葉でやりとりをしているかのようでした。

 ちなみにその時計は2ヵ月ほどで、どこかに飲みに行ったときに失くしました。人生で一番無駄な買い物でした。

 その一件が引き金となって僕の彼らを見る目は変わりました。彼らは物を選ぶときに『金額が高いこと』にまず魅力を感じて、欲して、買っていました。よく観察するとわかるのですが、本当に金額くらいしか見てないんですよ、彼らは。デザインが良くても機能性が高くても、自分が使いたいお金の額に満たない価格がつけられていたら買わないのです。ちょっと意味がわかりませんよね。でも確かにそうだったんです。

 そんな人間たちに囲まれている間は会話ひとつさえも苦痛でした。『今ランボルギーニが欲しくてさ』って、お前本当にランボルギーニが欲しいのかよ、と。普通の車と大きさも全然違うんだけど駐車場とかちゃんと考えてるのか? 納車までめちゃくちゃ時間かかるけど待ちたいのか? お前それ乗ってこの日本でこの東京で一体どこに行きたいんだ? 立体駐車場にそれ停めんのか? せいぜい50キロしか出せない公道でランボルギーニ乗りてえのか? ランボルギーニ買ったって言いてえだけだろ、なあ?

 集まるお店も最悪でした。わけのわからないただ暗くてお酒が高いだけの会員制の場所だとか、どこどこの重鎮が通ってる(らしい)料亭だとか、それで出てくるお酒も料理も大して味わっていないような感じでとりあえず写真だけ撮ってFacebookにアップして、『やっぱり意識の高い者同士で集まらないと得られない物だね』とか『これからもっと高みに上っていきたいね』とかいう謎の呪文を解き放つし、ちょっと付き合ってるとすぐに諭吉が何十人も消えてしまうし、もうただのファンタジーなんですよ。嘘です、あんなの。僕は大金をはたいて超嘘のファンタジーをしていました。よろしくお願いします。

 僕は当時まだまだ人を見る目が養われてなかったので、この人たちはただ『自分にとって眩しすぎるだけなんだ』と思っていました。当然のようにじりじりとそのコミュニティから身を引いてそこに自分がいた事実を『抹消』したのですが、もしもあのままあそこに居続けていたら今の人間らしい僕はいなかったと思います。僕は死んだ魚のような目をしてランボルギーニに乗るくらいなら魚になって死にたいですから。

 ともかく、そこで僕は『稼ぎが同じくらいの人間でも使い方が全然違うんだな』ということに気付き、今となってはその原因が先述した彼らが抱える『反応B』であったことにも気付けています。僕のような人間と彼らのような人間では、そもそも持っている物欲の『質』が違いすぎたんです。


物欲の質と財力の相関性


 そんな『高価』という概念そのものにそそられない僕にも『これになら大金でもはたきたい』と思える対象はいくつかあります。たとえば、家とか。

 僕は広くて綺麗な家がとても好きです。防音性が高くて惜しみなく楽器を使えたり、ペットのことを考えた設計が要所要所に施されていたり、キッチンやお風呂が広々としていたり使いやすかったり、洗面所のデザインが良かったりなどなど、自分が金銭的に払える最大の賃料や費用を払って好みの家に住みたいと思うタイプです。家そのものの質にこだわりがあるので立地はそこまで気にならないのですが、できれば周辺は静かな場所がいいですね。

 あとは本や映画などの創作作品の『摂取』にはガンガンお金を使えます。コレクションとして物が部屋に揃ってくれたりしなくてもいいのですが、それを読んだり観たりする時間や空間にお金を払うことに惜しみがありません。

 車もめちゃくちゃな高級車が欲しいわけではないのですが、自分が乗っていて乗り心地が良いだとか便利なサイズだとか、そういった点をしっかりクリアしている新車であれば欲しいと思いますし、お金が間に合うなら全然いくらでも出します。

 あとは気の置けない友人だったり恋人だったりと過ごす時間、一人で何かを楽しむことができる時間ですね。そこに身を置いている中で思いついた何かを実行するときに金額のことを気にすることは嫌なので、これもお金が間に合う限り出しますし、もしそれが突拍子もないことで大金がかかるとしても、あれば出します。

 要は『欲しいものなら高くても出す』というだけなのです。物欲の質が元よりそういったものなので『高いものが欲しい』という価値観や欲求を全く持ち合わせていないんです。高ければ高いほど機能性も上がっていくような品物を欲しているときであれば機能性を考慮して最も高価なものを選ぶということは往々にしてありますが、それが高価である理由が『人気』『希少価値』『ブランドパワー』などであれば興味の欠片もわかないのです。

 そしてこの感覚というのは、財力が高まっても変わらないんですよ。お金がない状態でも欲しいと思えたものしか、お金がある状態になっても手に入れようと思わないんです。(僕だけなのかもしれませんが)
 よく言う『お金を持ったことによって変わってしまう人』は『元からそういった質の物欲の持ち主』だったんだと思います。お金がないから気付かなかっただけで、中身は初めから『反応B』を持っている人たちだったということです。

 もしかしたら、安いものが悪いと思ってしまう『反応A』がこじれにこじれて『反応B』へと変わっていくケースもあるのかもしれません。高いものを買ってその品質にハマってしまった経験が自分の目を潰してしまって、金額以外何も見えなくなってしまうというケースはなんとなくありそうな気はします。それは『不安』が根源にありますからね。

 また、僕はその『反応Bを抱えていて尚且つ嫌な人たち』と付き合っていたので悪い思い出ばかり想起してしまうのですが、基本的にその反応そのものが悪いとは思いません。僕とは価値観上では合わないと思いますが、それ自体が友人関係になれない要因になったりはしません。

 ただ、お金を持つとその『反応B』は如実に姿を現してしまうので、それとはまた別に本人の『品性』がその後の行動を大きく左右すると思います。僕はそれが合わないならば、先述したコミュニティにいた人たちのように友人関係は続けられません。

 『金銭感覚』という言葉でひとまとめにしてしまいがちなのですが、それはあくまでも『量』や『大きさ』や『セーブする力』の話であって、これまで僕が話したような『物欲の質』とは違うと思うんですよね。

 そしてその『物欲の質』がどうかという点のほうが人間関係における『違和感のあるなし』に結び付きやすい気がしますし、自身の経済状況が潤って金銭感覚がぶっ壊れてしまった後に破産してしまったような人でも、僕が見てきた中では『反応B』の持ち主でさえなければ比較的まともに立ち直るものと思っています。

 僕は彼らがもつその反応のことを全く理解できないのですが、こうして考えた結論をもって人を見るようになってからは、人間関係において『反応B』由来のストレスに悩まされることがなくなりました。自分の身も心も守れるようになったわけです。


自分を知る


 ここまでの話から、僕は誰しもが『自分が高価なものにそれが高価だからという理由で魅力を感じるか』という点を自認した方がいいと思っています。それは友人であったり恋人であったり仕事仲間であったり、様々な人間関係の感触を確かめる一つの材料になると考えているからです。

 また、自分の経済状況が一変したときに自分を見つめなおす材料にもなると思います。決してお金の使い方だけで人生が劇的に変わるわけではないのですが、それを理由に人生を終わらせてしまうことは簡単にできますからね。気を付けなければならないのは、誰しも同じです。

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