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#小説【BL】 さくら、さくら

「桜、好きだって言ってただろう? この学校の周り、桜並木が多くて嬉しいって。去年入学式でさ」

 約束の日。僕は一人、桜の下で彼を待つ。

【※携帯やスマホのない時代のお話です】
【※初期短編集「犬と東京タワー」に掲載されているお話は、このお話を加筆修正したもので、ラストシーンはかなり違います】

 * * * * * * *


さくら、さくら



 少しずつ急になっていく坂道をひとり上ってゆく。
 普段ならこの時間、登校中の学生たちで埋まるこの道も、春休みに入った今日は、広々とした石畳に人影はほとんどない。
 両側に、桜並木。
 満開のソメイヨシノが、薄ピンクの靄のように頭上を埋め尽くしている。
 この桜咲く並木道は、かつての通学路だった。
 学校の通用門を通り過ぎた辺りから一段と急になってゆく坂道は、この町の花見の名所である白い天守閣のある公園へと続いていた。

 * * *

雄彦ゆうひこ、やめようよ。ヤバいって」

 真っすぐ伸びた背筋、大きな歩幅でどんどん進んでゆく彼の後を、僕は追いかける。皆と同じ制服の、他の誰とも違う後ろ姿を。

「大丈夫だって。花見にはまだ少し早いけど、こんなにいい天気なんだし、今なら人も少ないだろ」

 僕らの通っている高校は、この小さな田舎町の唯一の観光名所と言える城郭と背中合わせに建っている。そのため裏庭から直接お城の石垣の上に出られる隠れた抜け道があった。かなり急こう配で獣道的な感じの。
 彼は自分と僕の分の弁当を持って、校舎の裏庭からその抜け道へと向かう。
 小さな天守閣があるだけの田舎の城址公園だが、その高い石垣のお陰で遠くの山の緑まで見渡せる気持ちのいい場所だ。
 お城側の校舎からは、石垣の端っこのベンチで腰掛けてお弁当を食べている観光客の姿が見えるくらい、距離も近い。芸術棟の校舎のすぐ裏はもうお堀だし。

 お城に上がる坂道に面した通用門を出て、右に下れば最寄駅へ、左に上がってゆけばお城へと繋がっている。要するに『お城の公園』は、ここの学生たちの放課後デートコースの定番だった。
 けれど今はお昼休みで、うちの高校は基本的に外出禁止だ。だが陽気が良くなってくると、――無断外出者が続出する。
 大らかな雄彦と違って小心者の僕は、見つからないかとハラハラしながら、お弁当食べたくない。

「坂口とかに見つかったら、どうすんの? あの脳筋ゴリラに目付けられたくないんだけど」
 
 坂口は問答無用の熱血体育教師兼、生徒指導の教諭だ。剣道部の顧問でもある。
 去年まで同じ市内の札付きのワル高にいた坂口は、その感覚がまだ抜けきっていないのか、先生も生徒も大人しいこの高校でも竹刀を持って校内外をうろうろするようなヤバい奴だ。ああいう教師にこの学校は、きっと物足りないんだろうな。と思う。

「あはは、嫌いだよなー、なるは。あいつの事」

 雄彦は笑って振り返る。
 切れ長の目が印象的な、キツめの顏立ち。黙っていれば冷たそうな雰囲気だけど、目が無くなるまでくしゃりと笑う彼の笑顔は、すごく可愛い。

「笑いごとじゃないですよ」

 そうだよ、笑いごとじゃ、

「桜井先生!」

 びっくりして思わず上げた声が、雄彦とハモってしまった。
 すぐ裏の教室の窓から、苦笑いをしているつもりかもしれないけど、情けなさそうな少し困ったような笑顔を浮かべた男性が顔を出している。
 ぼさぼさの髪とダサい眼鏡、年齢不詳なひょろりと背の高い姿は、美術担当の桜井先生。
 そうだった。ここは美術室とか音楽室のある芸術等の裏手だ。美術準備室からは丸見えだよね。

「あの、先生……」

 焦っている僕の目の前に、すっと雄彦が立つ。背の高い彼の広い背中に、僕の身体はすっぽりと隠れてしまう。

「びっくりしたー。驚かさないでよ、先生」

 何にこやかに話しかけてんの? 

「確かに今日はとてもいい日和ですけどね。坂口先生もそう思われたのか、先ほど校外に見回りに出られましたよ」

 桜井先生もにこやかに答えて下さる。
 この人も、生徒指導じゃないとはいえ一応教師なんだけど。生徒にバラしていいんだろうか。寛容なのか、事勿れ主義なのか。今ひとつ掴めない人だ。

「えー! マジで? ほんと元気な人だなぁ、ったく。今日あたり狙い目だと思ったのに……」
「ほら、だから言っただろ。わざわざお城まで行かなくても適当なとこでいいって。ね?」

 悔しそうにぶつぶつ言う雄彦を、宥める。こういうところは子どもみたいなんだから。
 彼はとても感情表現がストレートだ。あまり上手に空気を読めるタイプではないけれど、短くした真っ黒な髪と瞳、健康的な肌の色、笑い皺のいっぱい出来る豪快な笑顔。明るくて真っ直ぐで優しい。彼は、誰からも好かれる性格と容姿を持っていた。

「成がいいなら、それでいいけど……。仕方ない、また今度な」

 そう言って、僕の頭にぽんと手を置く。
 ……それじゃなんか僕が行きたがってたみたいに聞こえるんだけど。

「竹岡くん、成瀬くん。良かったらこっちへ来ますか? 室内だけど日当たりはいいし、お茶くらいなら出しますよ」

 にこにこと僕らの様子を眺めていた桜井先生が、彼の城へ招待してくれた。

 
 通された細長いウナギ部屋は雑然としていて、はっきりいって狭かった。   
 だけど、一番奥のお城側の壁は天井まで全面が大きな窓になっていて室内は、明るい。深い緑の向こうに石垣が聳えていて、確かに景色は抜群だった。
 先生は僕らにパイプ椅子を出し、部屋の隅にあるミニキッチンでお茶を入れてくれている。
 芸術科目は選択制で、僕も雄彦も書道をとっていたから美術室には縁がないし、石膏像や牛?の頭蓋骨や、その他いろいろ訳のわからないもので溢れた部屋。雑然としたお世辞にもキレイとは言い難い部屋だけど、居心地は案外悪くなかった。
 好奇心旺盛な雄彦は、勝手に部屋の中をうろうろしている。

「さぁ、どうぞ」

 先生は湯呑を載せたお盆を、僕らの前の使っていない丸ストーブの上に置いた。

「ごめんね、テーブルもなくて。なんせ狭いから」
「いえ、ありがとうございます」

 先生も弁当を出して向かい側に座る。

「雄彦! 早く食べないとお昼終わっちゃうよ?」

 雄彦は棚に並べられた石膏像に興味津々みたいで、堀の深い人の割れた顎のあたりをなぞってる。

「君たちは同じクラスでしたね」
「あ、はい」
「でも先生、よく僕らの名前知ってましたね」

 戻ってきた雄彦が意外そうにそう言った。
 確かに。僕なんて、桜井先生とちゃんとお話しするのはこれが初めてだった。
 いくら先生でも、ある程度関わりのある生徒じゃないと、そうそう全校生徒の名前なんて憶えられるものじゃない。

「君たちの名前くらいは、僕でも知ってますよ。美術部員は女子が多いですし」

 あー、ですね。雄彦はモテるから。女子の噂話にはきっと頻繁に登場してるだろう。

「僕が見かけるときは、たいてい二人一緒ですけど、仲が良いんですね」

 僕は曖昧に微笑む。仲が良いっていうのはよく言われることだ。

 『いっつも一緒で、飽きねぇ?』
 『ほんと仲良いのな、お前ら』

 深い意味のないそんな言葉は、小さな棘のように心にひっかかかって、抜けない。
 何も悪いことなんてしてないはずなのに、後ろめたい気分になるのはなぜなんだろう。

「組み合わせというか、相性ってありますからねぇ。絵を描く上でも何でも。一個一個は良くても並べるとしっくりこなかったりして」

 立て掛けられた描きかけのキャンバスを見ながら、先生が言う。ありふれた静物画。玉ねぎの横に眼鏡と絵の具のチューブ。適当にあるものを並べただけのようにも見えるけど。

「引き立てあったり、かみ合わなかったり。意外と難しいんですよ。……そういう意味では君たちはとても絵になります」

 にこやかにおっしゃったけれど。―――これって、褒められるのだろうか。
 やっぱり変わり者だよね。美術教師とかって。

「そういうの、仲よきことは美しき哉。っていうんでしょ、先生」

 雄彦は適当な茶々を入れて、ボリューム重視の茶色い色味のおかずからデッカイから揚げを頬張る。そして、僕のお弁当のごはんの上にも、から揚げを一つひょいと載せた。ごく自然な仕草で。
 いつもお裾分けありがとう。おばさんのから揚げ、美味しいよね。

「そうそう、それですね。動物でも人間でも、仲の良い姿は美しいですね」

 先生は真面目に頷いて、そんな僕らのやりとりをにこにこと見てる。
 なんとなくかみ合っているようないないような不思議な会話だけど、妙に和やかで微笑ってしまう。
 春まだ浅い三月の柔らかい日差しの中、僕らはそんな長閑なお昼休みを過ごしていた。

 

「じゃあ、失礼します。お茶ご馳走さまでした!」

 元気よく頭を下げる雄彦に、僕も慌てて頭を下げた。

「はい。またいつでもどうぞ」

 先生は、ひらひらと手を振った。
 僕らは教室に向かう渡り廊下を並んで歩く。もうすぐチャイムが鳴るころだ。

「けっこう面白い人だな、桜井さんて。人の良い変わり者って感じでさ」
「そうだね。また行きたい」
「へぇ、珍しい。人見知りの成ちゃんが。―――妬けるんだけど」
 は?」
「でもさー、やっぱ難しいよな、お昼休みにお城でお花見ランチってのは。いいアイデアだと思ったんだけど」

 まだ言ってる。

「やけに拘ってない? それにまだ早いだろ、桜には」
「だって、帰りに行こうって言ってもお前嫌がるし」
「当たり前だろ。カップルばっかじゃないか。男同士の二人連れなんていないよ」
「――恥ずかしい?」

 真顔で訊く。
 まっすぐこちらを見る彼の目は、白目の部分がはっきりしていて、少し怖いくらいで。僕は黙ってじぶんの爪先に視線を落として歩く。

「桜、好きだって言ってただろう。この学校の周り、桜並木が多くて嬉しいって。去年入学式でさ」

 いつもの笑顔に戻って、雄彦は僕の顔を覗き込む。

「桜の嫌いな日本人なんていないし。……わざわざお城に行かなくても道沿いの桜で十分だし、登下校で見れるじゃないか」
「それとこれとは、また意味が違うというか……ま、いいや」

 雄彦は、諦めたように肩を落とす。――どうしてこう素直じゃないんだろう、僕は。
 雄彦は俯いたままの僕の髪をくしゃくしゃと掴んでいう。

「いつか、行こうな」
「……うん」
「在学中に行くのが恥ずかしかったらさ、卒業してもっとおっさんになってからにしよう。弁当もってさ。……いや、酒の方がいいか。花見の宴会? それなら恥ずかしくないだろ。そんな人いっぱいいるしさ。お城の公園の満開の桜、いつか見に行こうな。二人で」
「おっさんって……、いったい何年後なの?それ」
「んー、十年後くらい?」

 二十八はおっさんなのか?とも思うけど。
 ―――本当に、そんな日がくるといいな。

「――約束だよ」

 思わず、零れてしまった言葉。

「うん、約束しよ。じゃあ、卒業して十年後の四月一日な。覚えやすいし。よし、その日こそ念願のお城デートだ。忘れるなよ?」
「うん」
「雨天延期なしな」

 そう言って、雄彦が笑う。
 帰りにラーメンを食べに行こう。図書館で一緒に勉強しよう。日曜日に映画を見に行こう。
 そんな日常の約束を、幾度となく繰り返してきた僕たちなのに。
 そのときの僕は、他愛ないそんな遥か未来の約束が、何故かとても、嬉しかったんだ。

  * * *

 石垣の上の高台にあるこの公園の端っこは、展望台のように四方が見渡せる開けた場所で、石のベンチが点々と置かれている。
 ここはちょうど城の裏手に当たり、そんなに広くない幅の敷地には、天守閣を取り囲むように桜の木が立っていた。
 石垣の上には柵もなく、間近に寄れば真下に深緑色のお堀が見える。その右手には、校外に広く設けられた母校の第二グランドがあった。春休み中の部活なのか、野球部とサッカー部が練習をしている。
 少し離れたところにポツンとあるベンチに腰を掛けて、ぼんやりとそれを眺めがら、待つ。すぐ後ろには満開の桜の木。

 四方を山に囲まれたこの小さな町が、僕の故郷。
 天気の良い今日は、山際まで透明な空が広がってる。
 朝夕はまだ肌寒いけれど、まさに絶好のお花見日和。雨天決行だって言ってたけど、今日は雨の心配もなさそうだ。
 露店が立ち並び、簡単なお茶席も設けられている公園の中心は人出も多いが、裏手のこの辺りはあまり人は来ない。平日の今日は時折そぞろ歩きの人が静かに通り過ぎるくらいで。
 あとは、ベンチに寄り添う恋人同士。日向ぼっこを楽しむ老人。
 のどかな風景の中、ときおり思い出したように風が吹いて、木々を揺らす。羽織っていたスプリングコートが風にふわりと膨らんだ。
 花吹雪の中、一人ベンチに座る男。横には小さなボストンバッグ。――我ながら、この場所には似つかわしくないな。とは思うけど。
 
 降りかかる花びらに、目を上げる。
 僕は、桜の花や姿そのものよりも寧ろ、このひらひらと降る花びらが好きだった。

 * * * 

 雄彦と初めて出会ったのは、高校の入学式だった。
 もう桜も終わりで、満開を過ぎた花の下、花びらが盛大に風に舞っていた。
 同じ中学からこの高校へ入ったのは女の子が二人だけ。まだ友だちもいないし、かといって親と一緒にいるのもなんとなく恥ずかしい。
 僕は一人、ぼんやりと散る花びらを見上げていた。

「綺麗だな」

 呟くようなその声に振り返ると、すぐ近くに同じ詰襟の制服を着た男子が立っていた。
 一人でぼうっとしていたところを見られたのがなんだか気恥しくて、わざとそっけなく答えてしまう。

「もう散ってるよ」
「うん。でも、散る時にこんなに綺麗な花って、他に無いよな」

 照れたり茶化したりせず、さらりとそんなセリフを口に出来る素直さに、少し驚く。
 新しい環境、新しい人間関係。知らず知らずのうちに緊張していたらしい僕の肩の力がふっと抜けた。

「―――そうだね。そこら中で毎年毎年、同じ時期に必ず咲いて、散って。桜なんて別段珍しくもないけど……、綺麗だ」
「うん」
 
 彼は頷いて、くしゃりと笑った。
 そのときからもう、僕は彼に恋をしていたのかもしれない。



「今日は、バレンタインだ。」
「そうだね。」
 
 僕はいい加減に相槌を打つと、前の席に座ってる雄彦を読んでいた文庫本で遮った。
 それを言うためにわざわざ人の教室まで来たんだろうか。
 そんなおあずけされてる犬みたいな目で見ないでほしい。一週間くらい前から、「今日は」の部分が「もうすぐ」とか「明日は」に変わってきて、――今に至る。

「そんなこと言ってる時期か? 今。もうすぐ三年の進路別授業の選択もあるし、そろそろ受験のこと考えないとだめだろ」

 雄彦は僕の持っていた文庫本を取り上げると、それで軽く頭をはたいてきた。

「った!」
「なに先生みたいなこと言ってんだよ。成は。男子高校生にとっては、大事なイベントだろ。今日は」
「それは良かったね。たくさんもらっただろ、雄彦」

 にっこり笑って言ってやる。
 僕の知ってるだけでも朝、靴箱に二つ。どうせ机の中とか、教室でとか、お昼休みにだって貰ってるはずだ。雄彦は表向きフリーだし、モテるし。

「一個も貰ってないよ。俺」
「うそ」
「ほんとだってば」

 笑って彼が言う。――確かに雄彦は冗談でも嘘とか言わないタイプだけど。

「あ、やっぱりここだ!」
「おい、竹岡!」

 突然、雄彦のクラスの奴らが、四、五人集団でやって来た。めずらしい。なんだろう慌てて。

「おまえっ、六組の井上さん振ったってホントかっ?」

 一応声は潜めてるけど、興奮して声が上ずっている。

「振ったなんて人聞きの悪いこと言うな」

 雄彦は眉を顰める。

「ってことは、そうなんだな! 信じられない奴だな。井上さんのチョコ断るなんて罰が当たるぞっ。」

 彼らは口々に悔しがっている。僕はただびっくりして彼らのやりとりを聴いていた。
 確か井上さんて男子の人気ナンバーワンの女子だ。大人っぽい雰囲気の美人さんで、性格も良くて女子からも好かれてる。―――そーか。彼女も雄彦のこと好きだったのか。

「別に井上さんのだけを断った訳じゃないぞ。今年からは俺、誰からもチョコ貰わないことにしたから」

 雄彦は興奮している彼らとは対照的に、淡々と言った。

「なんで!? 去年山ほど貰ってたじゃんか!」
「俺、恋人いるし」

 もう、大騒ぎ。何気に聞き耳立ててたクラスの他の奴らまで、えー!!とか、マジ? とかの声が上がっている中、ひとり僕はその場に凍りつく。
 
「え、誰? 誰だれ、誰???」
「この学校の子か? 教えろよ、ずるいぞおまえ!」

 何がどうずるいのかは謎だけど、口々に問い詰める友人たちを尻目に、雄彦は僕を見て言う。

「内緒」

 ――心臓が止まるかと思った。
 彼らはその視線の意味を、僕が雄彦の恋人を知っていると解釈したのか、僕に向かって訊いてくる。

「そーだ。成瀬、お前なら知ってるだろ? 竹岡の恋人って誰?」

 雄彦は黙ってる。

「――知らない」

 そうとしか、答えようがなかった。
 何か言おうとした彼らを遮るように、チャイムが鳴った。

「さ、戻ろうぜ」

 まだぶつぶつ煩い友人たちを急かして、雄彦はさっさと自分の教室に戻っていく。
 知らない。と、そう言ったとき、雄彦がどんな表情をしていたのか。僕は見ることが出来なかった。

 電車通学の僕らは、放課後いつものように二人で駅までの道を歩く。ただ黙って。
 聞きたくて聞けないことのせいで、他の言葉が出てこない。

「昼休み、邪魔が入って話途中になったけど、俺、成に渡すものがあったんだ」

 彼はポケットから小さな包みを取り出し、僕に差し出した。
 アイボリーの包装紙にこげ茶色のリボンのかかった小さな箱。

「――チョコレート?」
「そう」
「でも今年は誰にも貰わなかったって、」
「これは、俺がおまえにやろうと思って買った奴」
「なんで?」

 僕は本当に訳がわからずに、聞いた。

「なんでって……。好きな相手にチョコあげる日だろ? 今日は」

 彼は子供にいうみたいにゆっくりと、やさしく言った。

「去年お前くれなかったしさ。俺も今年は作戦を変えたんだ。考えてみれば、俺達の場合どっちでもいいもんな。俺だって他の女どもに成をとられたくないから」

 僕は彼にもらったチョコレートを握りしめたまま、顔を上げられない。

「ありがとう」

 僕はようやくそれだけを言って、彼の肩に掛けられたバックパックの端を掴んで歩く。

 本当は去年、渡すつもりだった。
 だけど――。

 名前は知らないけれど、お昼休みに雄彦にチョコレートを渡していた女の子。栗色のさらさらロングヘアで、可愛らしい子だった。
 そのあと彼女は付き添いの友達に、良かったね。渡せてよかったね。って慰められながら泣いていたんだ。
 義理チョコも多いけど、それでもやっぱり、好きな男の子のいる女子にとっては、一年に一度の大切な日で。一生懸命おしゃれして、勇気を振り絞ってチョコレートを渡す。
 微笑ましい光景だった。なのに、――胸が痛くて。
 結局僕は、二人で食べようと用意していてチョコを渡せなかった。

 斜め前を歩く彼に、小さく、ごめん。と呟く。

 「ん?」

 雄彦が振り返る。

 「どうして、……チョコ貰わなかったんだ?」

 恋人がいるって言ったんだ?――とは聞けなかった。

 「受け取るくらい、受け取ってあげればいいのに」
 「義理チョコなんていらないし、本気なら応えられない」

 はっきりと言い切る。

 「言っただろ? 恋人がいるからって。受け取ってあげるのも優しさかもしれないけど、誰もかれも傷つけないで済むほど、俺器用じゃないし」

 雄彦の大きな手が、僕の頭をくしゃりと掴む。
 バスケットボールも余裕で掴める雄彦は、お前の小っちゃい頭なら掴んで持ち上げれそう。とか言って、笑ってたっけ。――もう、半分癖みたいになった仕草。

 「俺は、成のことで手いっぱいだから」

 そう微笑う。
 解ってたんだ、雄彦は。本当は僕が嫌だったこと。
 冗談めかして、たくさんもらったんだから十分だろ。って、持っていたチョコを隠した僕の気持ちは、見透かされていた。
 醜い嫉妬心を悟られてしまった僕は、その言葉を素直に嬉しいと思えなかった。

 

 次の日、雄彦の恋人いるよ宣言は学校中の噂になっていた。おかげで僕まで朝から質問攻めだ。
 知らぬ存ぜぬで通したけど、お前ら一年の時からべったりなくせになんで知らないの?的なことを散々言われて、いい加減うんざりしてきた。
 朝から胃が痛くてお腹も空いてなかったけど、とりあえずお弁当を広げる。さすがに今日は雄彦もうちのクラスにお弁当を食べに来られないだろう。お年頃なのか、その手の話題には男子も女子も興味津々だ。

「ねぇ彼女〜、お茶しない?」
 
 同じクラスのお調子者、関口がやかんと弁当箱を持ってやって来た。
 この学校ではお昼休みに、各教室に一つ、インスタントラーメンのCMでしか見たことのないようなでっかい薬缶に入ったお茶が配られる。当番がお茶係りだ。

「彼女じゃねーし」

 僕は愛想のない言い方でコップを差し出す。

「あれ、ご機嫌斜めなの? 成ちゃん。めずらしい」
「別に」

 人見知りな僕に友達は少ない。もともと表情に乏しくて感情があまり表に出ない性質たちだから、円滑な人間関係のために、普段は適当に周りに合わせてなんとなく愛想笑いくらいは浮かべる様に努力はしてるけど。今日はさすがにその気力もなかった。

「眉間に皺よってる。――いつもにこにこ優しい成ちゃんが、そんな顏してたらファンが減ってよ?」

 急にころっと口調を変えて、180㎝を軽く超えるゴツイ身体で、箸を握りしめて小首を傾げる。その低い声でその口調、上目使いでぱちぱち瞬きするの止めて。
 僕は思わず吹き出してしまった。

「そうよ、笑って! キャンディ、泣きべそなんてサヨナラよ!」
「泣いてないし! てかキャンディって何?」

 ツボってる僕に、関口が追い打ちをかける。

「えー。知らない? いにしえの少女マンガの主題歌。ひとりぼっちでいると、ちょっぴり寂しくなって、鏡に向かって、笑って~、笑って~。って歌うんだって」
「いや、意味わかんない。ホラー漫画?」
「いや、トキメキ少女マンガ。――よし、ならば歌ってしんぜよう」
「いらない。遠慮しとく」
「う、つれないとこは、相変わらず」

 大げさに、机に突っ伏した関口。
 冷たくあしらいながらも、僕の方は少し気分が軽くなった。

「成瀬って、物分りいいっていうか、いろいろ大人だよね。俺はさー、成瀬はもうちょっと我儘でもいいと思う。嫌なこと言われたら、別に怒ってもいいんだよ?」
 
 珍しく真面目な口ぶり。
 がさつで無神経なようで、意外と人のことよく見てるよね、関口は。

 軽く流したつもりだったけど、『実は彼女ってお前のことだったりして!』って笑ってた奴らもいた。無視したけど。
 本当にそうだったら、きっと彼らも笑えない。それがジョークだって分かってるから、相手になんてしない。
 『あいつの好みって巨乳のロングヘアだろ? こないだグラビア見ながら言ってたよなぁ? な、どーなの? そういうタイプ?』
 これはわざわざうちのクラスまで聞きにきた、雄彦と同じ剣道部の奴らのセリフ。初めて聞いたよ。いらない情報をどうもありがとう。だ。

 いちいちまともに相手しないで、めんどくさい、俺に訊くな!って怒ってもよかったってこと? 
 これって慰められてる……のかな? 思わず、無言で見上げてしまう。
 ささくれだっていた僕の気持ちが、なんとなく癒される。関口って案外イイ奴かも。

「あ、ちょっとクサかった? うーん、キャラじゃないか、やっぱ」

 関口は自分で自分に突っ込みを入れてる。なんか赤面してるし。意外と照れ屋だし。
 学年で一、二を争うおちゃらけ系のお笑い男子の意外な一面に、つい顏が綻んでしまう。

「ああ、やだ。男相手に何真っ赤になってんだか。……言っとくけど。俺にそっちの気はないからな?」
 
 赤くなった顔を手で仰ぎながら、目を逸らす。

「分かってるよ、そんなこと。お前彼女いるじゃん」

 動揺を隠しつつ、答える。そう、関口は一つ下の後輩と付き合ってる。吹奏楽部の元気で可愛い子。

「でもほら、正直、成瀬って綺麗な顔してるしさ、俺らと違ってむさ苦しくないし、こう、なんか守ってあげたい的な? そういうとこあるよな、成ちゃんて」
「俺って、……そういうふうに見えるってこと?」

 笑って言おうとして、失敗した。

「そういうふう、って?」
「男を好きになりそうな感じ。……ホモとか、オカマっぽい?とか」

 一瞬の沈黙―――。

「いやいやいやいや、そういうことじゃなくて! えと、ほら、そう!ジャニーズ系? そう、そっちってことだから! もう、やだーっナルちゃんたら、オカマさんって逆にもっとマッチョじゃなくちゃ! ね、アタシみたいなナイスバディじゃないと?」

 焦って冗談にしたいのか何なのか、捨て身のオカマネタか。確かに関口は帰宅部のくせに無駄にマッチョ系だ。
 
「怒った? 成ちゃん。ごめん、俺そういうつもりじゃなくて……」

 黙り込んで俯いた僕の様子を伺うように、情けない声を出した関口。

「うっそー。怒ってないよ。ふふ、関口のそんな焦った顏初めて見た」

 笑ってパッと顔を上げた僕に、関口が一瞬ぽかんとした顔をした。
 今度はちゃんと笑えてたはず。

「――成瀬って、けっこうイイ性格してるよな。実は」
「今頃気付いた?」

 拗ねたようにそう言った関口の額に、僕は軽くでこぴんをしてやった。



  
「コーヒー、紅茶、日本茶、えっとあとは、コーラかカルピスソーダ。何がいい?」

 学校帰りに僕の家に寄った雄彦に、冷蔵庫のドリンクホルダーを思いうかべながらそう声を掛ける。

「あったかいお茶」

 渋めのオーダーが返ってきた。

「了解」
 
  勝手にヒーターを点けてコートを脱いでいる雄彦をおいて、僕は一階のダイニングに降りた。
 学校からは僕の家の方が近いし、僕の両親は共働きで夜まで帰ってこない。だから、部活のない日は彼が途中下車して僕の家に寄ることが多かった。
 お茶を淹れて二階の自分の部屋に戻ると、雄彦はホットカーペットの上ですっかりくつろいでいる。
 僕は彼の前に、湯呑の載ったお盆を置いた。

 「ありがとう、成」

 彼はどんな小さなことでも、いつもちゃんと、自然にありがとうと口にする。育ちが良いってきっとこういうことを言うんだろうな。と思う。
 
「いえいえ、どういたしまして」

 いつものことなのに、それがどうにも可愛くて、つい微笑ってしまう。
 間違っても亭主関白にはなりそうもないよね。そんなことを思いながら、僕は学生服の上だけ脱いで、部屋着にしてるパーカーを羽織った。
 その様子を見ていた雄彦が訊いてくる。

「なぁ、成、痩せた?」
「え、そんなことないと思うけど……」

 ほんとは少し痩せた。ほんの2、3㎏だから、見た目にはそんなに変わんないと思うけど。

「いーや、痩せたよ。ほら」

 ベッドに凭れるようにして座っていた雄彦が、その隣に腰を降ろした僕をいきなり抱きしめる。

「もともと華奢だけど、前よりなんか骨を感じる」

 感触で確かめないで欲しい。

「ばか! いきなり何すんだよ!」

 一瞬硬直してしまったけど、慌てて彼の腕から抜け出そうともがく。でも、がっちりと回された腕はびくともしなくて。

「どーせ、鶏ガラだし。……巨乳じゃないし」
「は?」

 ぼそりを言った僕に、雄彦が怪訝な顔をする。

「巨乳のグラビアアイドルがお前の好みだって、剣道部の奴らが言ってた。黒髪ストレートロングの」
「……聞かれたから、答えただけだよ。二択だったし。なんで部室内の猥談をバラすかな、あいつらは」
 
 げんなりした顏で溜め息を吐く。
 雄彦は同性愛者ではないと思う。多分僕も。
 僕とこういうことになっていなければ、多分性的な嗜好はストレートだ。どんな女の子がタイプかと訊かれて巨乳ちゃんを選ぶ程度には。

 お互いの気持ちが、友情を超えてしまったことに気付いたのは、キスをした後だった。
 いつものように、僕の部屋で宿題をしておしゃべりをして。二人きりの部屋の中では、ごく自然に二人の距離は近くなってゆき、少しでも近くに居たくて、くっついていたくなって、気が付いたら――どちらともなく唇が重なっていた。

 そのとき、驚きと同時に僕はすとんと理解した。
 彼に対するこの気持ちがなんなのか、どう呼べば良いのか分からなくて、僕はそれがずっともどかしくて。『友情』というカテゴリーにはとても収まらないくらいの、この執着を持て余していた。
 これが『恋』だとすれば、納得がゆく。そう思った。
 この独占欲も、切なさも、彼に触れたい、触れられたいと思う気持ちも。これが恋なら。
 そして、その触れるだけの口づけのあと、彼は僕に好きだと言ったのだ。

 そうして『恋人同士』になって、もう一年以上が経つ。
 雄彦と僕はもうとっくに清らかな関係ではない。とはいえお互い童貞で、男同士のセックスに関してほとんど知識もないから、初心者の僕らで分かる範囲の触れ合い止まり。身体を繋げるところまで至ってはいないけれど。

 自宅だとやっぱりなんとなく落ち着かないっていうか、準備?とかもよく分からないし、そういうところを使うということに抵抗もある。
 僕の方に負担が大きい行為みたいだから、雄彦は無理強いしないし、僕の方もなかなか勇気が出ないでいた。

 それでも、こうして抱き合ったり、キスしたり、お互いの身体を触ったり口づけたりは何度もしているのに、いつまでたっても慣れない。こうして抱きしめられるだけでも、いちいち心構えが必要なのだ。
 回数を重ねようが、恥ずかしいものは恥ずかしい。
 がっちりと僕を捕えた腕はびくともしなくて、僕は赤くなってしまった顔を隠せなくて、――きっと変な顏をしてるよね。
 雄彦はそんな僕の様子に、しょうがないなっていうふうに、ちょっと困ったうような表情で微笑む。

 あ、この表情かお好き。

 一瞬見惚れてしまった僕の唇に、彼の唇が重なる。
 キスは好きだ。
 この行為は、男と女でも、男同士でも、きっと変わらない。
 触れるだけのキスも、確かめ合うようなキスも、少しエロモードに入った時のキスも、全部好き。ふざけるように、啄むキスも。
 雄彦とするキスは、全部好きだ。すごく幸せで泣きたくなる。
 そのまま彼に身体を預け、肩に凭れた僕の額の辺りで雄彦が囁く。

「なぁ、成は大学どこ受けるんだ?」
「まだ決めてない。雄彦は?」
「一応K大の医学部」

 関西にある国立最難関の一つ。同じ大学に進もうだなんて夢にも思えないから、いっそ気が楽かも。

「でも、別に国立の医学部ならどこでもいいっちゃいいんだ。私立は授業料が高過ぎてうちの経済力じゃ無理だけど。だから、成の受ける大学と一番近い国立にする。一緒の大学なら言うことないな」

 その言葉に驚いて、顔を上げた。

「そういう主体性がない決め方でいいわけ?」
「あるだろ、主体性。将来の夢と恋愛と、両立できるベストな方法だと思うけど?」

 雄彦の夢は医者になること。
 小学校の頃に『将来の夢』っていうタイトルで作文を書かされたときに、いろいろと子供なりに真剣に考えて決めたらしい。
 生真面目な雄彦らしい決め方だよね。そこからまったくブレずに、今に至ってるところも。
 僕なんてそんなの何書いたかも覚えてないのに。

 僕は黙って、彼に胸に身体を預けて目を閉じた。
 僕を包む雄彦の腕が、柔らかくなる。僕は、こうして、――何も考えず、寄り添ったまま過ごせればそれでいいのにな。って思う。将来なんてどうでもいい。ずっとこうして居られたらそれでいい。
 そんな叶うはずのない、夢とも言えない、バカみたいな我儘を口に出しはしないけれど。
 
 二人が恋人で居られるのは、この部屋の中だけ。このほんのひと時だけだから――。
 今は直接肌に触れてくる彼の掌の熱を、ただ感じていたかった。
 
 

 雄彦が帰ったあとの、ひとりの部屋で考える。
 将来の夢と恋愛の両立。雄彦が事もなげに言った言葉。
 彼は頭も良いし努力も惜しまない。彼は将来、患者の信頼に応えられる立派な医師になるだろう。
 そのとき僕は、まだ・・彼の恋人でいられるのだろうか。
 
 友達と恋人の境界線はひどく曖昧で、僕らは知らないうちにそれを超えてしまった。
 それが正解だったのかどうか、今でも解らない。間違っていたのだとしても、もう元には戻れない。
 彼と肌を合わせて触れ合ったあと、一人になるといつも後悔が押し寄せてくる。

 どうして、友だちのままで踏み止まらなかったんだろう。
 なんでも分かり合える親友なら、彼に彼女が出来て少し寂しく思うことはあっても、友だちとしてずっと側にいられたのに。
 お互いに普通に恋をして、いつか結婚して、子どもが出来て、それぞれに新しい家族が出来ても、親友というポジションは揺らがない。
 友だちなら、身体じゃなく心でずっと繋がっていられた。友だちのままならきっと、年をとっても変わらぬ友情で結ばれていたはずなのに――。

 僕は――ひと時の『恋』と引き換えに、永遠の友情を失くしてしまったのかもしれない。

 三年生になって、僕は私立文系クラス、雄彦は国公立理系クラスになって、クラスも離れ、選択授業も一つも重ならなかった。
 それでも、登下校と図書館での勉強は一緒だった。
 夏休みは毎日二人で図書館に通った。人に教えるのは再確認になるから。と彼は僕が分からないところを、丁寧に教えてくれた。
 ただ並んで勉強しているだけでも、幸せだった。触れ合わず、言葉もなく、ただ側にいるだけの時間。それでも僕にとってそれは残り少ない大切な蜜月のような時間だった。
 

 二学期が始まって、僕は彼に少し距離をおこうと提案した。
 雄彦は不満そうだったけれど、浪人してまた一年この生活が長引くのは嫌だし、あと半年死ぬ気で勉強して今年で終わらせよう。と言ったら納得してくれた。
 いざそうなってみると、もともと意志の強い雄彦はより勉強に集中できているようで模試の順位もどんどん上がっていった。
 理数系が苦手な僕は最初から公立を諦めて私立に的を絞り、K大と同じ市内にあるD大を受験すると彼に伝えた。それに合わせて雄彦は、K大を第一志望にし勉強漬けの毎日を過ごしている。
 志望大学に受かれば、春からは二人とも家を出ることになる。K大は寮もあるみたいだけど、一緒に住めたらいいな。と雄彦が笑う。
 そんなふうに春からの新生活を夢見ながら、僕らの高校生活最後の年は穏やかに過ぎていった。

 
「成瀬、漢文の補習とってただろ?。次D-5教室だぞ」
「あ、うん」

 関口に声を掛けられ、ぼうっとしていた僕は慌てて教科書を取り出す。

「大丈夫? なんか顔色悪いけど。……ちゃんと寝てる?」

 関口が、心配そうに僕の顔を覗き込む。三年生になってクラスは離れたが、関口も私立文系コースで選択授業はほぼ同じ。必然的に行動を共にすることが多くなった。彼は気を使わなくていい数少ない貴重な友人で、みんながぴりぴりしだすこの時期、能天気な関口と一緒にいるのは気が楽だった。

「今頃、十分な睡眠時間とってる奴の方が珍しいだろ」
「俺、八時間は寝てるけど」

 胸を張って言うな。

「冗談だろ。この追い込みの時期に」
「今だからじゃん。もう十二月だぜ。今さらじたばたしたって仕方ないもん。それに俺、成瀬ほどレベル高いとこ受けないし。ちゃんと自分の頭の程度に合わせて受験するから」
「悪かったね。じたばたしてて」

 別に勉強するために起きている訳ではなく、眠れないから勉強してるだけだけど。

「やーい、ガリ勉」

 むっとした僕に、追い打ちをかける。ほんとイイ性格。

「なぁ、この短期補習が始まったときから思ってたんだけど、成瀬ってD大一本で行くって言ってたよな。落ちたら浪人するって」
「うん」
「あそこって入試に漢文なかったと思うんだけど」

 とっさに言い訳が思いつかない。
 黙り込んでしまった僕に、関口の方が慌てる。

「もしかして、――知らなったってことは、無い、……よな? うーん、でも成瀬って意外に抜けてるとこあるし。今心の中で、『しまった!! なんて無駄なことしてたんだぁっっ!!』って叫んでる?」
「叫んでないよ。――もう一つ、受けることにしたんだ」
「なんだ。でもその方がいいよ。一個くらいは滑り止め受けておいた方がさ」
「滑り止めじゃなくて、そっちが本命だけど。――内緒だから、誰にも言うなよ?」

 関口はこう見えて口は固い。

「どこ受けるの?」
「……W大。」
「え、W大って、東京の?」

 東京以外にW大はないだろ。と心の中で突っ込んでおく。
 ここは関西の片田舎にある進学校。通うには遠いけれど、京都や大阪に近い地域にあるこの高校の学生は、そっち方面に進学する生徒が多い。東京方面の大学を受験する生徒もいなくはないけど、少ないと思う。

 「なんでまた、いきなりそんな遠いとこ」
 「いきなり、ってわけでもないんだけど」
 「それって、竹岡は、」
 「知らないよ」

 被せ気味に言ったあとそのまま黙り込んだ僕に、同じく暫く無言だった関口が口を開く。

「えーっと、……よく分からんのだけど、確か成瀬も竹岡も本命一本で行くって言ってたよな。二人とも京都の大学でさ。それが、成瀬だけこっそり東京の大学受けるなんて、」

 僕の方を伺う様にちらっと見て、続ける。

「やっぱり、その理由って竹岡なの?」

 言いにくそうにしている関口に対して、僕は思ったより冷静な声が出せた。

「やっぱりって、どういう意味?」

 今度は関口が黙り込む。
 もう補習が始まる頃だ。教室にはもう誰もいない。選択補習だから出席はとらないし、途中からでも入れるけど。

「……ケンカでもしたとか。」
「普通、友だちとケンカしたくらいで志望校まで変えないよ。」
「違ってたら……ごめん。おまえらって、ただの友達じゃないんだろ?」

 思ったよりショックじゃなかった。なんとなく彼は気付いているような気がしていた。もう、ずっと前から。

「もしかして、――噂にでもなってた?」
「いや、俺が勝手になんとなくそうかなって、思ってただけ」
「さすが関口」

 イヤミでなく、素直にそう思う。

 最初から、雄彦はこそこそしたくないと言っていた。僕がみんなに知られたくない。って言ったから、黙っていてくれただけ。
 雄彦はもともとそういうのを人に吹聴したり、人前でいちゃいちゃしたりするタイプじゃないし、いつも一緒にいても、ただ仲が良い親友同士だと思われるだけだ。今まで変なふうに言われることはなかった。
 バレンタインの雄彦の発言の時も、本気で雄彦の恋人が僕だなんて思ってた奴はいなかったはずだ。きっと関口以外は。

「でも、ケンカしたとか、嫌いになったとか、何かあったようには見えないけど……」
「別に何も問題はないよ、今のところ。雄彦は春からも一緒だと思ってるだろうし、言うつもりもない。卒業と同時に、僕が雄彦の前からいなくなる。それだけだ」
「――なんでそんな手の込んだことするんだ? 別れたいんだったら、そう言えばいいじゃないか。わざわざそんな遠くに行かなくても」

 それには答えず、反対に聞いてみる。

「関口は、――気持ち悪くない? 男同士なんて」
「偏見は持ってないつもりだけど……。他に身近にいないから、よくわかんないっていうのが、正直なところだな。――でも、ほら、こういうのって思春期にはよくあることだっていうし。知らないだけで、そんなに特別なことじゃないのかもよ?」

 関口なりにフォローしようと、考えながら答えてくれてるのは、よく分かった。

 「そうだね。若気の至り。ってやつだよ、きっと。俺も雄彦も、もともと男が恋愛対象なわけじゃないから。……卒業っていうのはいい機会だし。遠く離れてしまえば、――そのうちきっと忘れられる」

 そう、こんな関係きっと長くは続かない。
 だから、僕が雄彦の重荷にならないうちに、気持ちが冷めて嫌われないうちに。僕らの恋が、枯れて萎んでしまわないうちに。花吹雪になって散ってしまえばいい。

 ひと気のない教室は、すぐに冷えてくる。
 僕は出していた教科書を鞄に放り込んで、コートに手を伸ばす。今日はもう、遅れてまで補習に出る気にはなれなかった。
 帰り支度を始めた僕を黙って見ていた坂下が、不意に口を開く。

 「要するに、そこまでしなけりゃ忘れられないくらい好き。ってこと?」
 「―――そうだよ」

 僕は、そのまま教室を後にした。

 
 

  卒業というと何故か桜のイメージがあるけれど、卒業式の時期には桜はまだ咲かない。見上げた木々の蕾は、もう膨らみ始めてはいるけれど。
 式が終わり会場を出ると、広い校庭のあちこちで繰り広げられる別れの光景。
 部活の後輩に囲まれている者。涙と共に祝福の花束を貰うひと。第二ボタンを貰うひと、渡すひと。校舎を背景に記念写真をとるグループ。
 その光景の中の埋もれながら、特になんの感慨も湧かないまま、ぼくはただなんとなく、それを眺めていた。
 人混みの中から、僕を見つけた雄彦が近づいて来る。

 「おまえのも、もう結構とられてるな。」

 いくつかボタンのとれている僕の学生服。顔も知らない後輩に、記念に下さいと言われて、渡した。こんなものどうするんだろうと思いながら。
 そう言う雄彦の学生服は、第二ボタンどころか、袖口の小さな飾りボタンまできれいに無くなっている。 
 一緒にいたはずの関口は、気を利かせたのか、後輩の彼女のところへ行ったのか、今僕たちの周りには誰もいなかった。

 「これ、おまえの分」

 そういって、目の前に差し出されたのは、艶消しの金ボタン。

 「これって……」
 「第二ボタン。別に、卒業しても俺達は変わらないし、こういう記念みたいなの、お前は欲しがらないだろうとは思ったけど。でも、他の誰かにやってしまうのも、……なんか、な」

 雄彦は、照れたようにそっぽを向く。僕は彼の掌の上のそれを、そっと摘みとる。

 「もう最後だから、――記念にもらっとく」
 「え?」

 雄彦は、不思議そうに僕を見る。
 何も言わずに、消えるつもりだったけれど――。

 「東京に行くんだ。W大学に受かったから。……最初から、そのつもりだった」
 「……どういうことだよ、それ」

 雄彦の怪訝な顔が、だんだん強張っていく。見たこともないような、怖い顏。

 「今日でもう、――卒業だから」

 頭の良い雄彦には、これで十分。僕に言えるのは、これで精いっぱい。
 彼を騙して裏切っておきながら僕は、さよならもお別れも、言いたくなかった。許してほしいとも、思わない。
 伏せた目に、白くなるほど握りしめられた雄彦の手が映る。殴られる覚悟をした僕に、雄彦はほんの一瞬泣き出しそうな顔をして、背を向けた。

 残された僕は、その場に立ち尽くす。彼は一度も振り向かずに、行ってしまった。視界がぼやけて、もう後ろ姿も見えない。
 ふと、目の前に白い物が差し出される。見上げると、どこかから見ていたのか、おせっかい関口がハンドタオルを手に立っていた。

 「よかったな、今日がいくらでも泣いて良い日で」
 
 差し出されたハンドタオルを黙って掴みとり、顔に押し当てる。
 嗚咽をタオルで押さえ込みながら、やっぱり関口のフォローはピントがずれてるよな。と、僕は他人事のようにそう思った。

 

 * * *

 

 日が暮れて、桜を枝を繋ぐように吊り下げられたぼんぼりに明かりが灯され、夜桜の下、そこここに広げられたシートの上で宴会が始まる。
 外れのベンチに座る僕の耳にも、ときおり広場の方から楽しそうな声が流れてくる。
 僕はただ、一人、ぼんやり桜の下の座っている。

 意地を張らずに、一度くらい一緒にくれば良かったな。と、今さらのように思う。ひと気のないところなら、少しくらい手を繋いで歩けたかもしれないのに。

 そんなことを考えながら、ただ、座り続ける。
 雄彦が来てくれるなんて、思っていない。僕はただ、待つためにここに来たんだ。来るはずのない相手をただ待つために。

 
 彼と別れて、そうして僕は普通に社会人になって、いつか家庭を持って、平凡で穏やかな人生を送るつもりだった。
 あの頃の想いも、新しい生活と時間に流されて、懐かしい思い出に変わっていくはずだった。
 だけど、桜は毎年咲く。繰り返し、去年も今年も来年も、その先もずっと。
 そうして僕は、春が来るたびに、もう側にいない人を思い出す。繰り返し。

 あれから、十年――。
 流れた年月の分、出会いや別れがあり、それなりの経験も積んで、あの頃よりは少し大人になった。
 だけど結局、僕は、彼を忘れられなかった。
 離れたらすぐに忘れられるなんて、そんなふうに思ってたあの頃の自分は、本当にバカだったな。って思う。

 僕はいつも流されているばかりで、きっと最初に好きになったのは僕の方なのに、キスをしたのも、好きだと言ったのも、彼の方だった。
 僕からは一度も、好きだと言葉にしなかった。きっと彼は僕がこんなに彼を好きだとは知らなかっただろうな、と思う。

 
 夜桜見物の人波も途絶えて、酔客の声も、もう聞こえなくなった。
 普段なら、もう真っ暗になっているこの公園も、まだぼんぼりの灯は灯ったままだ。
 僕は、コートのポケットを探って、金ボタンを取り出した。
 灯りに翳しても、くすんだボタンは光らない。
 学生服も何もかも、高校時代の持ち物はもうとっくに処分してしまった。でも、これだけは捨てられなかった。取り出して手に取ったことは一度もなかったけれど。

 捨てるつもりで、持ってきた。
 今日一日、今までずっと思い出さないようにしてきた彼のことを、いっぱい想って、あの頃の自分と、今の自分の気持ちと向き合って、それで最後にするつもりった。
 彼が来なかったら、このボタンを堀に沈めて、今度こそ彼を忘れるつもりで。

 彼は来ない。
 そう思う一方で、もしかしたら、って、ほんの少しだけ思っていた。ほんの少しだけ、夢を見ていた。
 潔くて中途半端なことをしない彼は、僕のことを今でも許せないのなら、ここには来ない。もう誰か大事な人がいるのなら、絶対に来ない。

 だから、もし――。
 もし、彼が来てくれたら、その時は。

 今度こそ、好きだと、伝えたかった。ちゃんと言葉にして、伝えたかったんだ。ずっとずっと好きだったって。
 もう僕のことを好きじゃなくていい。応えてくれなくてもいい。ただ、ちゃんと伝えておきたかった。あの頃の僕は、君しか見ていなかったって。

 
 止んでいた風がふわりと吹いて、はらはらと花びらが舞う。
 もう、日付が変わる。30分に一本しかないローカル電車は、もうとっくに終わっているだろう。……思い出に浸る時間はもう、おしまい。

 そうして僕がベンチから立ち上がったとき――。
 近づいてくる足音。砂利道を上がってくる、人影。

 これが現実なのかどうか、分からないまま立ち尽くす僕の前に、乱れた息を整えている、雄彦。
 シャツにジーンズ、薄手のジャケットを羽織っただけのラフな格好。想い出の中の彼より、ちゃんと十年分年を取った雄彦が、立っている。
 短く揃えられた癖のない黒髪は、変わらない。輪郭はシャープに力強くなって、体つきも顔つきも、一人前の大人の男になった。
 でも、まっすぐに僕を見つめる瞳は、あの頃と変わらない。

 「遅くなって、ごめん」

 まだ荒い息のまま、言う。
 
 「夜勤明けで休みのはずだったのに、急患が入って出そびれて……。電車なくなったから、車で帰ってきたんだけど」

 懐かしい彼の声、あの頃より少し低くなったかも。声に意識がいって、内容が、なかなか頭に入ってこない。
 それが、遅れた理由? ぼんやりと、考える。
 来るのが当然で、そこには何の迷いも疑問のなかったような、彼の口調。申し訳なさそうに言う彼のその言葉の意味が、ようやく呑みこめた。

 (そっか、もうお医者さんになったんだ。夢が叶ったんだな)

 彼は自分が思い描いた未来に向かって、真っ直ぐに歩き続けていたのだと、嬉しくなる。
 
 「成…、俺は、」
 「あの! 雄彦、俺、もし会えたら、言いたいことがあったんだ」

 何か言いかけた雄彦を遮るように、僕は彼の目を見てそう言った。
 今度こそ、僕から伝えるんだ。結果なんてどうでもいい。
 彼は黙って、僕の言葉を待ってくれている。

 勇気を出して、口を開けば――。

 吹く風が花びらを巻き上げた。
 僕の言葉を掻き消すような木々のざわめきと風の音。

 それでも届いた僕の言葉に、彼はくしゃりと顔を綻ばせ、花びらごと僕を抱きしめた。


 毎年毎年、桜は咲く。これから先僕らがどんな未来を歩んで、どんな結末を迎えても、春がくれば、桜は咲く。

 だから、僕が彼を忘れる日は、一生来ない――。



 fin*
  

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