得をしないということは損をしたのとは違うけど無駄であるっていう話。

小学生のときに事故だったり特性だったり幼さ故の無鉄砲?無計画?でやらかした色々を思い出して仕事中に一瞬鬱になった。

昔の私は今よりもっと人との距離感とか共感能力とかが色々バグってて「あそこの家の子とは遊んじゃダメ」とか言われがちな子供だった(実際に言われたかは知らん)。

でも所謂ひまわり学級とかには行ってなくて、今で言うグレーゾーンってやつなのかもしれない。故にクラスではあんまり馴染めてなくて、でも馴染めてないことにも気付いてなくてそれがまた増長させたのかも、もうわかんないけどね。
つい数日前にその過去のやらかしの一件を思い出したことを今日思い出してそこから芋づる式に色々思い出して「あ、死ななきゃ」って原付乗りながら方法とかどうしよっかーてちょっと考えてた。
死なないでも罰さなきゃな、いちばん苦しかったのは最後にODした時だな、何飲んだっけな、て考えたところでやめた。
私自身はもちろん、知らないところで私が苦しんだとしても小学校や中学校の同級生はそれを知らないわけで、そこに何かを植え付けることはできないわけで、旦那もラリった私を介護する余裕はないと思うから誰も得しないだろうな、って思うことにした。あいつらが見ていない所で自分を罰して何になる。コスパ悪いし。前みたいに救急車沙汰になったら最悪じゃん。このご時世だし病院はちょっと…まぁ結局全部言い訳なんだけど。

ちょっと探せば誰にも迷惑かけないで消える方法なんていくらでもあるだろうけどそれらをしないのは結局のところ死にたくないんだろうな。というか大体の生き物は死にたいって考えないんだろうな、死にたいって考えるほうが異常で、それを少しでも否定できるようになってきたのはある意味成長なんじゃないかと無理やり自分を納得させることにした。

過去のあれこれを謝りに行ったり謝らせに行ったりもできなくはないけど今の生活の方が大事だから今日のところはいいや。

て自己完結したっていう話


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