こうどうきじゅん

この頃、行動基準がほとんど「ボケ防止」になっているのには自分でも苦笑する。
視力も弱り、若い頃ほどバリバリと読めなくなったが、それでも本を手にとるのは、
そこに「ボケ防止」という立派な動機があるからだ。
もちろん専門書などは元から読めるほどの才はない。
義務教育を終えた程度の学力なら読める程度の一般書ばかりだ。
そこそこ楽しい読書習慣である。
だが若干寂しいことながら、小説にハマることはほとんどない。
なぜだろう。あるときまでは小説も大好きだったのだ。耽溺するほどの作家も何人かいた。
いやそれどころか、自分で書いてみたこともある。
自己満足ではあったが一本書き上げ、どこかの新人賞に応募したこともある。箸にも棒にもかからなかったが。
それはどうでもいいのだが、もしかすると俺はそれで小説というものが、分かった気になったのかもしれない。
当然それは勘違いだが、小説に限らず、そのしくみを知ることで以前ほど興味を持てなくなってしまうことはよくある。
大人になるということは、それの積み重ねとも言える。そしてもうこれ以上つまらない裏事情を知りたくないと思ったりもする。
だがそんな俺でも10代の頃は全く逆で、世界の全てを知りたがっていた。もっともっと世界のしくみを知りたかった。
知らないことを知れば知るほどさらに知りたいことが増えていく。それが快感だった。
しかし歳を取るごとに、森羅万象全てに深く興味を持ってしまったら、とてもじゃないが身が持たないということが分かってくる。悲しいかな俺の脳には限界があると心底実感する。
これはパス。これもパス。これはこれ以上深入りしてもしょうがない。
そして世界に対してそんな態度をくり返していたら、いつしか興味が「ボケ防止」だけになってしまった。
新しいことに興味を持てない、憶えられない、意味がわからない。典型的老人に近づいている。
このままでは遠からぬうち、ただの迷惑な老人になってしまう、という自分自身に対する危惧を抱くようになってしまったからだ。
真実、物事を知るには、その物事それ自体に興味を持つ、愛する、一体化する、ということが不可欠である。
「ボケ防止」なんていう不純で矮小な動機で接したところで世界はその潤沢で豊穣な恩恵など与えてくれるわけがない。
世界はすでにもうそのかすかな魅惑の微笑みすら見せてくれなくなってしまっているではないか。
だから、俺はそのような真理に運良く今気づいたので、今日只今から俺は、「ボケ防止」という言葉は封印することにしよう、と決めた。
むしろボケてもいいから、何かに対して、真に愛し、興味を持ち、一体化する、ということを目標にしよう。
そういう対象との出会いをあきらめないことにしよう。
いっそなにかにハマりたい。
その可能性が少しでも見えるかどうか。それがこれからの行動基準だ。
10代の頃のなにも知らなかった頃よ再び。

まあ、そんな大上段に構えなくてもよい。もうすでにボケは始まっているのだ。
もうすでにいろんなことが分からなくなってきている。
だから、だから、いろんなことをいちいち学び直すのだ。
結局、長く生きたからと言ってなにかが分かったと思うのは傲慢というものだ。
冗談でなく、何かを真剣に愛したい。慈しみたい。できれば一体化したい。
そしてこれは、この感覚は、いったい俺をどこへ連れて行ってくれるのか、それを知りたい。

noteに書くのはひさしぶりのことで、まとまりのない、オチのはっきりしないものになったが、そういうのはおいおい、技術を身につけていきたい。

なにを書いても誉めてくれた塾長へ、感謝とともに。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?