【論考】フェミニズムにおける「言説/物質」と、現代生物学
本noteは、大学院の授業で提出したレポートをもとにしている。主に、近年のフェミニズムに見られる「物質的転回」について扱っている。序盤は、私がこのレポートを書くに至った経緯が書かれているが、後半は文献レビューになっているので学術的にも参考になるものがあるかと思う。では。
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私は、本授業の第6回で扱われた「物質的転回(Material Turn)」に強く関心を持った。その中でも、授業の後半で紹介されたフェミニズムにおける物質的転回について興味を持ったため、本レポートでは、それについて論じる。
私が高校生のとき、強く興味をもったのは「解剖学は宿命ではない」というスローガンである[1]。これは実存主義の中で語られていたものだ[2]。私は、その性・生の可能性を切り開く精神性に強く心を打たれた。と同時に、理系学生であった私は「解剖学は運命でない」としたら、解剖学とは一体何をしていることになるのか、他にも物理学の法則は何を意味しているのか、という疑問を持った。学部では宇宙物理学の方に進むも、その疑問はつねに自分の中に残っていた。そこで修士では専門を変え、科学で「宇宙とは何か」を探求するのではなく、その探求で得られる知が成り立つための条件を問う認識論や、「これまで人は宇宙をどのように考えてきたか」という思想史の分野で研究をしている。
今の研究分野が共有している前提は、純粋に「宇宙とは何か」を捉えることはできないということだ。「宇宙とは〇〇である」という言説は、常に自然言語や人工言語である数学を用いなければならない。他にもメディアを通すならば、そういった言説は文学的なメタファー、政治的な権力もひきずることになるだろう。というよりむしろ、そういった様々な思想の場が交差するなかで、私たちはある対象について考え、語らなくてはならないのである。私たちは常にすでに、ある思想の場の内側にいて、その外に出ることはできないのだ。
ただこうした態度に対して、近年、科学的知見を前提に議論する自然主義哲学、またはカンタン・メイヤスーに代表されるような思弁的実在論、そして言説ではなく、物質の方に目をむける物質転回、新しい唯物論などが見られる。はじめの自然主義哲学は、分析哲学からの系譜を持ち、言語行為が可能になる神経系などの物質的条件を科学的に探求している(青山拓央, 2012, pp. 130-135)。次のカンタン・メイヤスーは、主著『有限性の後で』にて、カント以降の思考のあり方を「相関主義」と批判し、人間の思考とは無関係である「祖先以前的言明」はどう扱えるかを思索している。そして最後の「物質的転回」が、今回扱いたいトピックであり、それがフェミニズムにおいて、どのように展開されているのかを見ていく。
まず、授業で紹介されていたAlaimo StacyとHeikman Susanの『Material Feminisms』、その序論「フェニミスト理論における物質性に関するモデルの出現(題名拙訳)」を見ていきたい。この序論では、物質、とりわけ人間の身体をフェミニズム理論と実践に取り入れる試みを紹介している。また、なぜそのような試みを行う必要があるのかも述べている。まず、彼らは、現在のフェミニズム理論の多くが「言説」に関するものであると指摘する。
ここに書かれている通り、今のフェミニズムは“汚染された”物質の領域から距離を取り、文化や言説、言語の領域で議論している、というのだ。“汚染された”というのは、近代の性差に対する自然主義的な見方であろう。例えば、それはルソーの性差論や、生物学的決定論に代表される。そこから離れ、つまり「物質的にどうであるか」ではなく、それを取り巻く言説に注目したのが現代のフェミニズムの主流ということだ。ただ、それでは、フェミニズムが革新的、生産的、肯定的な方法で医学や科学と関わることを不可能にするとして(A. Stacy・H. Susan, 2008, p. 4) 、そうした言説一辺倒の議論の成果を引き継ぎつつも、物質の側面に目を向けた理論や実践の必要性を説いている。
このような説明は、フェミニズム科学論の現在の動向についてまとめている論文、飯田麻結の「フェミニズムと科学技術ー理論的背景とその展望ー」にも見られる。フェミニズム科学論とは、「生物学的決定論」、「科学の客観性」、「自然と文化の境界」などを問い直してきたものであり、20世紀後半に生まれてきた。その中の議論においても、フェミニズムは「言説的なもの」に注力する流れが見られる。また同論文では、それに対抗するような「新しい唯物論」の動向を視野に入れており、それは「人間、非-人間の身体を含む物質の可塑性や変容可能性に重点を置き」、また「物質的なものと言説的なものが複雑に交差する場で「自然」や「物質」が固定的な概念として捉えられてきたこと」を批判する (飯田, 2020, p. 138)、と説明される。つまり「物質とは変わらず、固定的である」という物質に対する固定観念を打破したのである。ここに生物学的決定論から脱却しつつも、物質的な身体を語る可能性が存在するといえよう。ただ同論文では、「新しい唯物論」の動向が生まれるよりも前に、物質性を念頭に入れたフェミニズム理論が数多く存在していたことを指摘し、単純な転回とみなすことへ注意を促している。
また、現代の生物学は性別二元論や決定論に立脚しているわけではない。水島らによると「2000年代以降、ヒトの性差をめぐる生物学は、長らく続いてきた「女」「男」という二元論的な考え方を超え、性を連続的な「スペクトラム」と捉える見方が主流になってきている」(水島ら, 2020, p. 435)という。ここから分かるのは、性別の二元性は物質的な対象に実在しており、それを文化が継承しているというよくある見方はそもそも間違いで、物質的な対象に実在しているのは連続的な性であり、むしろ文化の方がそれに二元的な区切りを与えていたことだ。また檜垣立哉の「生物学とフェミニズム」という論考でも、現在の生物学は、遺伝子決定論ではなく、遺伝子と環境の相互作用によって個体が発生していることを指摘し、そうした議論をフェミニズムに取り入れる可能性が示唆されている。
以上、フェミニズムにおける「物質的転回」、「言説/物質」の扱われ方を見ていった。私が思うに、物質を直接語ることは、当時の生物学の性別二元論や決定論をひきずってしまう可能性があり、女性の生の可能性を解放するには扱いづらい部分があったように思える。それのため言語的、記号論的転回をし、性・生の可能性を広げる必要性があったのだろう。ただ生物学はいまや性別二元論や決定論に基づいているわけではない。ここから新たな身体観がうまれるだろう。ただ一体フェミニズムはその知見をどのように接木するのだろうか。これからの動向が楽しみである。
参考文献
・Alaimo Stacy, Heikman Susan. (2008). “Introduction emerging models of materiality in feminist theory”. Material Feminisms.Indiana University Press
・青山拓央(2012)『分析哲学講義』筑摩書房
・カンタン・メイヤスー(2006/2016)『有限性の後で 偶然性の必然性についての試論』人文書院、千葉雅也、大橋完太郎、星野太訳
・清水晶子(2020)「フェミニズムの思想と「女」をめぐる政治」『世界哲学史8』筑摩書房
・飯田麻結(2020)「フェミニズムと科学技術-理論的背景とその展望-」『思想』岩波書店
・檜垣立哉(2023)「生物学とフェミニズムー21世紀思想からフレンチ・フェミニズムの流れを捉え直す」『生命と身体: フランス哲学論考』勁草書房
・水島希ら(2021)「性差の生物学:「女と男の違い」から「個体」概念の問い直しまで」『科学史事典』丸善出版
[1]実際、スローガンとなっていたかは調べがつかないが、その方針は以下の記述からうかがえる。「男性と平等の権利を取り戻そうとする女性たちは何よりまず、自分たちが本質的に男性と異なっているのではなくいわば同じ人間であること、生物としての雌雄の差は「女が誰であること」を決定しないこと、つまり解剖学は宿命ではないことを主張する必要がある、ということでもあった。」(清水晶子, 2020, p. 108) また「解剖学は宿命である」というのはフロイトの言葉である。
[2]ボーヴォワール『第二の性』の「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」に代表される。当時、『第二の性』を読んでいたわけではないが、この1文だけを噛み締めていた。
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