見出し画像

【書評】 星野太 『食客論』

「よそよそしさ」を泳がせておく

現在、「共生」という言葉は社会正義のスローガンとして人口に膾炙している。とりわけ、このスローガンは排他的な態度への抵抗として掲げられていることだろう。現在の日本の政治が、社会的少数者を頑なに考慮に入れないのを鑑みると、こうした抵抗は重要に思える。ただ勘違いしてはならないのが、「『共生』とは達成されるべき理念などではなく、われわれがあらかじめ巻き込まれている所与の現実」であることだ。つまり、われわれは「共生」を意識する、しないに関わらず、つねにすでに他者と共に生きているのである。政治や法で扱われていないからといって、他者は空間的にわれわれの外部にいるわけではないのだ。

また「共生」と同じく語られがちな「社会的包摂」にも目を向けたい。「社会的包摂」とは、一般に「誰も排除せずに、全員が社会に参画する機会を持つこと」を理念にした取り組みだ。これは、社会が想定している既存の生のあり方を拡張し、さまざまな選択肢を増やすことによって、より多くの人が社会の制度の中で生きられるようにする試みと言える。このように「社会的包摂」は重要な一方、その新たな選択肢が形骸化すると「拡張した選択肢でしか包摂しない」という排他的な態度にもなりえる。「社会的包摂」は、共同体の境界を拡張しているだけで、境界それ自体に対する懐疑はないのだ。境界は社会によって二次的に設定されているにすぎず、他者はその境界に則して存在しているわけではないのである。

そのように考えると、「社会的包摂」は本当の意味で「他者」と共生していることになっているのだろうか。新たな型を作ることは必要であるが、他者を自分たちの理解の範疇に置くことで包摂するのは、むしろ他者を強引に「脱他者化=身内化」させているように思える。そこでは、他者の「身内の論理での語りえなさ」=「よそよそしさ」は失われてしまうだろう。こうした他者の持つ「よそよそしさ」を保ちながらも、他者と関わるあり方はいかにして可能なのか。これが同書で探求されている問いである。

そこで同書が目をつけているのが「食客(しょっかく)」という存在だ。「食客」とは、辞書を引くと「他人の家に居着いて食わせてもらっている人」である。いわば「居候」、英語で言えば parasite (パラサイト)である。厳密には「家族」ではないのだけれど、場と食事を共有している謎の存在、また、それは友と敵、身内と他人といった、わかりやすい二分法にはうまく収まらない何者かである。別の言い方をすれば、曖昧な他者、つかみどころのない存在だ。同書では、そんな「よそよそしさ」の権化である「食客」、それに関するさまざまなテクストを読み解き、共同体と他者との間に働く奇妙な力学を浮き彫りにしている。

また自分が身内だと思っている人にも、常に自分の知らない側面があるのを踏まえれば、誰にだってそうした「よそよそしさ」はある。ただわれわれはそうしたことに目を瞑ってきたのかもしれない。身近な人の「他性 (alterity) 」=「よそよそしさ」が露呈したとき、それを否定したり、それを漂白して自分の理解可能な型に還元することなく、「他性」を保ち続けながら泳がせておく、そうした余地を同書はもたらしてくれる。


*本文は、参宮橋にあるギャラリーカフェまのまの書評冊子「まのま日和 vol.2」に収録される予定である。


ギャラリーカフェ まのま

参宮橋公園の裏口から2軒目にあるギャラリーカフェ。美大生を中心に2021年春に期間限定で開催。現在は「気ままにゆるりと」不定期営業。開店日は Instagram にて随時告知。
https://www.instagram.com/ma__no__ma/?hl=ja



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?