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【読書記録】イヴ・K・セジウィック『クローゼットの認識論: セクシュアリティの20世紀』 、「序論 公理風に」を読む。

本noteは、ジェンダー・セクシュアリティ分野におけるクィア理論の古典的名著、イヴ・K・セジウィック『クローゼットの認識論: セクシュアリティの20世紀』(1990)に関する読書記録である。今回は特に、同書の「序論 公理風に」を読解する。

この序論は20世紀におけるセクシュアル・マイノリティの、特に同性愛者の権利運動、また同性愛に対する嫌悪がどのような前提で行われているのかに注目している。またレズビアン/ゲイ・スタディーズが栄えてもなお、いまだホモフォビック(同性愛嫌悪)が根強い文化の中で、「同性愛者、または同性間の親密さ」の可能性を狭めさせないような「立論・研究の仕方」を提示している。

○全体要約

・「同性間の親密性や性行為」に関する定義をめぐって
同書が注目するのは、20世紀における「セクシュアリティに関する言説」である。今でもそうだが「セクシュアリティに関する言説」、つまり「同性愛とは〜である」という形式の言説には統一されたパラダイムがなく、複数のモデルが並存し、かつ合理的な説明のつかない中で並存している。そんな中で同性愛者に対する差別の正当化が行われ、また同性愛者の権利が擁護されている。ただセジウィックはこの一貫していない同性愛の定義、また互いに矛盾する定義同士の間に決着をつけたいわけではない。つまり、どれが同性愛に対する唯一正しい理解であるかを決定したいわけではないのである。セジウィックは「自己矛盾した言説の力の場によるパフォーマティヴな効果の方が、私の主題である。」と言い、両立しえない複数の定義がひしめき合う言語実践の場において、同性愛者の「カミングアウト」や「沈黙」などの行為遂行的な言語行為がどのような効果を持つのかに注目する。

またセジウィックは同性愛の定義をめぐる議論に、新たな区分を設定する。それが「マイノリティ化する見解」と「普遍化する見解」である。これは同性愛的傾向に対する「構築主義/本質主義」論争の代案として提示される。つまり同性愛的傾向の起源は「育ってきた環境(構築)」なのか、「生まれ持った特質(本質)」なのかという対立を、別の次元で扱おうとしているのである。セジウィックのいう「マイノリティ化する見解」は、具体的には「同性愛行為をその人に根ざした特質に帰する見解」であり、一方の「普遍化の見解」は「同性愛行為の可能性はあらゆる人に潜在しているとする見解」である。それぞれは「本質主義」「構築主義」に対応するわけだが、「見解」とすることで「同性愛の唯一の起源」を問うのではなく、「それぞれの見解が言語実践の場において果たす効果」の次元に論点を移したのである。それにより既存のレズビアン/ゲイ・スタディーズの成果を「マイノリティ化の見解」に、またそれを補う形で自らの研究(同書での研究成果)を「普遍化の見解」として位置付けることができ、「自己矛盾した言説の力の場」の中で、一つの見解でもってホモフォビックな勢力に抵抗するのではなく、両方の見解を用いて抵抗する可能性を開いたのだった。

・セクシュアリティをどう考えるか。
現在、セクシュアリティは「性的指向(Sexual Orientation)」として理解されている。「性的指向」とは「その人の恋愛感情や性的関心が、どの性別を対象にしているか」、つまり「対象選択のジェンダー」に特化したセクシュアリティ概念である。ただ人間のセクシュアリティ(性現象一般)を「対象選択のジェンダー」の違いに還元する必然性はない。人間は本能が壊れた「ホモ・デメンス(錯乱人)」であり、人間のセクシュアリティには、行為の長さに関する好み、行為の計画性に対するこだわりなど、さまざまな違いが存在する。このように人間のセクシュアリティには有性生殖に還元することのできない、無限な差異が見られるわけだが、我々は先の「性的指向」のように、セクシュアリティに対する一定の類別化を行なっている。ただそのとき、どの類別化が本質的なのかを探るのではなく、ある類別化がどのような効果をもたらすかを探求するべきなのである。

このようにジェンダーとセクシュアリティの癒着を剥がし、それぞれを別の軸として理解することによって、セクシュアリティを「階級」や「人種」といった他の軸と組み合わせることができるのである。また女性、レズビアン、ゲイ男性、非標準的な性実践者など、互いに複雑な関係性に置かれているカテゴリーの固有性を維持したり、それぞれの連帯の可能性を絶やさないようにするには、ア・プリオリにそれぞれの存在の連続性を否定したり、また同じ広がりを持つものとして一緒くたに考えることをやめなければならない。具体的にセジウィックは、公理3にてレズビアン・フェミニズムの運動史における「理論的凝り」を指摘し、レズビアン理論の可能性を開いたのだった。

・アンチ・ホモフォビックな文学研究のあり方
同書は19世紀末のイギリス文学の読解がメインであり、大きく言えば文学研究に属する。そうした文学研究において、アンチ・ホモフォビックな態度はいかにしてありえるのか。セジウィックはこれに対して2つのモデルを示している。1つは「主流文学(正典)の再編成・読み替え」である。つまり、正典と呼ばれているテクストにすでに潜在している「同性愛要素」や「ホモフォビックな要素」などに注目し、それを顕在化させることである。もう一つは「マイノリティ文学(ミニ・キャノン)の確立」である。これはレズビアン/ゲイを自称する作家、または同性愛をテーマにした作品を集め、主流文学に対抗するような「ミニ・キャノン」を作ることである。この2つのモデルの文学研究を行い、内と外から既存の主流文学キャノンを「はさみうち」にすることで、主流文学キャノンの匿名性を問うことができるのである。セジウィックは、ゲイ研究に②マイノリティ文学(ミニ・キャノン)の確立を任せ、同書では①主流文学(正典)の再編成・読み替えを行なっているのだが、それは先の「マイノリティ化の見解」と「普遍化の見解」の役割分担と言えるだろう。


○各公理の読書メモ

(公理に入る前の文章)
・「[ 本書が注目するのは ] ホモ/ヘテロセクシュアルの定義(異性愛主義的にせよアンチ・ホモフォビックにせよ)に関する20世紀のすべての重要な見解に内在する矛盾なのである。(中略)ただ本書の目的は、これらの矛盾の二極を裁定することではない。
・「本書は、これら性の定義を〈マイノリティ化する見解〉と〈普遍化する見解〉との拮抗する主張の「真実」について、決定的に調停できるような、いかなる思考の観点も示唆するわけではない。」
・「本書が定言的とする唯一の命令は、アンチ・ホモフォビックな研究を追求するという、非常に広いものである。」
→まず同書が研究として取り組んでいるのは19世紀ごろのイギリス文学である。だが彼女が同書を書くにあたって念頭に置いているのは刊行当時(1990)の、またアメリカの「セクシュアリティに関する言説」である。当時(今でも)、「同性愛とは〜である。」という形式の言説の「〜」にはさまざまな言葉が入り、同性愛者の権利を擁護したり、または差別することを正当化されるために用いられていた。例えば少し昔であれば「同性愛(同性間の性行為)とは、ありあまる性欲ゆえの行為である」と考えられ、秩序を乱すため犯罪として取締られた。またセクシュアリティ一般の言説において、1970年代からのレズビアン/ゲイ・スタディーズの言説もその例外ではない。1969年のストーンウォールの暴動以降に生まれた解放主義的運動と関連をもつ同研究群は、本質主義に基づいた同性愛理解の立場を貫いている。つまり「同性愛(同性間の性行為)は、その行為を行う性質をもつ同性愛者によって行われる」という立場である。この定義は「同性愛者の文化を異性愛者の文化に対抗させていく態度」をエンカレッジするものだった。ただ「異性愛主義的にせよ、アンチ・ホモフォビックにせよ」、よく見ると自分たちの主張を正当化するために色々な仕方で同性愛を定義しているのだった。(セジウィックはそれを大きく「マイノリティ化する見解/普遍化する見解」の二つに分けている。)このように20世紀におけるセクシュアル・マイノリティの権利をめぐる動きは、統一した定義がなく、定義の非一貫性、矛盾がある中で行われているのである。しかし、当時のアメリカはホモフォビック(同性愛嫌悪)な文化が優勢であり、さまざまな同性愛の定義をひねくりまわして同性愛者を不利な立場に追いやっていたのだった。こうした中でセジウィックは、同性愛の定義に決着をつけるのではない形で、なおアンチ・ホモフォビックの立場に立って、現状のホモフォビックな流れに一石を投じられないかと考えている。

・「自己矛盾した言説の力の場によるパフォーマティヴな効果の方が、私の主題である。」
→一貫した同性愛の定義がないまま、というより両立不可能な定義がある中(「同性に対する親密性や性行為は誰にでもあることである。(普遍化の見解)」「同性愛者しか同性愛行為をしない(マイノリティ化の見解)」など)で、同性愛者はホモフォビックな社会を生き抜く際に、例えば「沈黙」や「カミング・アウト」という「行為遂行的」発言を行っている。これを抽象化すると、ある言語運用の力場があるなかで、ある特定の振る舞いや宣言などを行なっているのである。こうした「発話実践」にセジウィックは焦点を当てる。別の言い方をすれば、どの言説(同性愛の定義)が正しいかではなく、発話実践の中での主張とその正当化の効果に注目したいのである。これは言語行為論(プラグマティズム)的と言えるだろう。

・「これらが、まさに自己矛盾した定義のからくり、簡潔にはこのダブル・バインドを通して、強力な操作の行われる永続的可能性に、濃密に満たされた独特な場であるということである。」
→「同性愛/異性愛」という二項対立を脱構築する中でわかったことは、その二項対立は一貫した、安定した定義によって序列化されているのではなく、両立し得ない不安定な定義らを使い、強力な操作(序列化)が行われており、序列化の永続的可能性=「常に序列化を行うことができる余地」に満ちた場であることだ。つまり脱構築を通して、二項対立の序列が不安定であることを示しても、常にその不安定さを用いて「序列化」するアンチ・ゲイがいるのが実情なのである。このように「同性愛/異性愛」という二項対立は「独特な場」なのである。

・「私は、本書を(必須なものであると同時に)興味をそそるようなものにしたかったが、絶対に、アルゴリズム的な段階的問題解決法を提示するようなものにはしたくなかった。」
・「私自身が、本質主義よりかは構築主義を、マイノリティ化の見解よりかは普遍化の見解を、ジェンダー分離主義よりかはジェンダー移行主義を特権化する解釈を取ったとしても、このような著作が許される場があり、この著作が貢献できるかもしれない深い知的領域があるのは、そもそも同時進行中の、本質主義的で、マイノリティ化の見解に立ち、分離主義的なゲイの思考と闘争が豊かだからである。」
→セジウィックは同書の主張を「法則化」「アルゴリズム的な解決策」にはしたくないという。ここでの「法則化」とは、例えば「万有引力の法則」を例にとれば、その法則は、別にニュートンの著作や、それまでに至る思想史的経緯を無視にしても、法則それ単体として扱えることであろう。つまり主張を脱文脈化させて、独立した命題として扱うことが「法則化」と言える。セジウィックはそのように考えて欲しくないというのだ。また同書で展開するセジウィックの同性愛理解は「普遍化の見解」、つまり「同性に対する親密性や性行為は誰にでもあることである」という態度をとる。たがそれが正しい同性愛理解の仕方であると言いたいのではなく、当時の研究の潮流としてその逆の「マイノリティ化の見解」に立つゲイ・スタディーズが盛んであるゆえである。つまり支配的な「マイノリティ化の見解」がある中で、相補的に「普遍化の見解」を打ち出しているのであった。このようにセジウィックのこの著作は、かなり文脈依存的な著作であり、同書の主張はその文脈を含んで検討する必要がある。そしてこの序論は、同書の主張を当時の状況に位置付けるために書かれているのである。(別の言い方をすれば、めちゃくちゃ神経質な予防線とも言える。)


公理一 人々は互いに異なっている。(が、何かしらの類別化が行われている)

・「しかし、次のことのそれぞれがもし純粋な差異として真剣に受けとめられたとしたら、セクシュアリティに関して現在利用できる思考の多くの形式を粉砕するような、未知の可能性がそれぞれに潜んでいることがわかろう。」
→今のセクシュアリティの理解は、大きく「性的指向(Sexual Orientation)」に依拠している。性的指向とは「その人の恋愛感情や性的関心が、どの性別を対象にしているか」、つまり「対象選択のジェンダー」に特化したセクシュアリティ概念である。こうした概念は「ヘテロ/ホモセクシュアル」の定義、つまり19世紀末に生まれた理解である。これによって本質としてのレズビアン/ゲイ・アイデンティティをもとに、異性愛主流文化に対抗する運動ができたことは否定できない。しかし別に「性的指向」だけがセクシュアリティの定義ではない。「セクシュアリティ」とは「性現象一般」であり、S /Mなどの性的嗜好も含むものである。そうしたセクシュアリティにおける差異のリストをセジウィックは具体的に13の項目を挙げるのだが、その1つが以下の「自然発生/計算された計画」の差異である。

「ある人は性的場面が自然発生的であることを好み、他の人は筋書きの計算され尽くしたものを好む。さらにまた他の人は、自然発生的に見えながら、なおかつ完全に予測不可能なものを好む。」

このような項目が13個あるわけだが、セジウィックは別にそれがすべてであるとは考えていない。無限個列挙可能であることを、単にだらだらと書ける有限の範囲で示しているのである。これまでの補足を踏まえて、抜き出した文章を説明する
と、現在では「性的指向」という対象選択のジェンダーの差異として「セクシュアリティ」が語られているが、セジウィックが列挙するような差異が「純粋な差異」として、つまり「対象選択のジェンダーの差異」と同等な差異として真剣に扱われたら、「セクシュアリティに関して現在利用できる思考の多くの形式を粉砕するような、未知の可能性がそれぞれに潜んでいることがわかろう。」ということだ。そうした潜在性がセクシュアリティには眠っているのである。

・「一定の類別化が本質的に何を意味するかではなく、それらがどのように作用するか、どのような法の制定を行い=演じているのか、どのような関係を作り上げているのか、と繰り返し問うこと、それが私の主要な戦略であった。」
→ただ注意しなくてはいけないのは、セジウィックが「セクシュアリティは、どのようにも類別化するべきではない」と言っているわけではないことである。我々はすでにセクシュアリティを「類別化」をしており、また今後も類別化するだろう。そのとき、どの類別化が本質的なのかを探るのではなく、ある類別化がどのような効果をもたらすかを探求するべきなのである。つまり「言語行為的」な面に目を向けるべきなのだ。それがセジウィックの立場である。
→この点で私は公理一の「人々は互いに異なっている」が、あまりいい題ではないように感じている。それは、単に「セクシュアリティは人それぞれである」という単に平坦で自明なことだからである。私は、この「人々は互いに異なっている」に「が、何かしらの類別化が行われる」と付け加えたい。


公理二 セクシュアリティの研究はジェンダーの研究と同一の広がりを持つわけではない。同様に、アンチ・ホモフォビックな探求は、フェミニストの探究と同一の広がりを持つわけないではない。しかしこれらの研究が互いにどのように異なるのかについては、あらかじめ知ることはできない。

・「これはジェンダーとセクシュアリティが別個の軸である可能性を強力に示す議論ではある。
→セジウィックが懸念していることは、これまでたくさんの学問的蓄積のあるジェンダー研究にセクシュアリティの研究が還元されてしまうことである。これは公理一の指摘と同様に、現在「セクシュアリティ」は「性的指向」=「対象選択のジェンダー」として考えられるが支配的であり、そのように考えるとセクシュアリティの問題は本質的にジェンダーの問題となり、これまでのジェンダー研究の語彙で語られることになってしまう。先ほども指摘した通り「セクシュアリティ」は「性現象一般」のことであり、ジェンダーの問題に還元できるわけではない。むしろ他の社会運動で扱われるような「階級」「人種」などの軸と親和性がある可能性だってあるわけである。このようにジェンダーとセクシュアリティの間にある恣意的な癒着を外し、別個の軸に分け、さまざまな軸の組み合わせの一つとしてジェンダーとセクシュアリティの共通領域があるとする方向へと進めていくのがいいだろう

・「「セクシュアリティ」は、(たとえ本質でないにせよ)生殖または生殖の可能性と結びつくようなある身体的部位、行為、リズムとに中心または出発点があるという限りの意味で、「染色体的性」と同種なもののように見えるかもしれない。(中略)しかし、フロイトが論じフーコーが仮定したように、人間のセクシュアリティ特有の性的な性質が、まさにただの生殖の振り付けを超えた過剰さ、またはそれとは異なる可能性を備えていることに関わっているという限りにおいては、「セクシュアリティ」は当初(染色体に基づいた)セックスと呼んだもののまさに正反対と言えるかもしれない。」
→「セクシュアリティ」を考えるうえで「生殖」という語を用いる者がいる。つまり「なぜ人は性行為をするか」という問いに対して、動物同様に「繁殖のためである」と簡単に答えてしまう者である。ただフロイト(のちのラカン)などは、そのようには考えない。人間とは他の生物と異なり本能が壊れている「ホモ・デメンス(錯乱人)」と考えるのである。つまり「ただの生殖の振り付け(本能にしたがった行為)」を超えた過剰さを持っているのである。このときポイントなのは、これを「本能+過剰」と捉えるのではなく「本能という方向づけ自体が散乱している」として捉えることである。つまり人間は本能、生殖に基づいて性行為をしているのではなく、それとは全く独立したシステムで行為を行なっていると、フロイトらは見ているのである(そのシステムが精神分析理論なのである)。フロイトらの精神分析理論が厳密に正しいかはさておき、人間の「セクシュアリティ」には「有性生殖」に還元されないような部分があることは言えるだろう。
→またフロイト、ラカン、フーコーはともに「普遍化の見解」である。

・「いずれにしても強調したいのは、「性の理論」を「ゲイ/レズビアンあよびアンチ・ホモフォビックな理論」に暗黙のうちに還元してしまうことが、「性的指向」という言葉を「対象選択のジェンダー」という意味に当然のように読み込んでしまう今の傾向とおおよそ対応しているということ、そしてそれは特定の歴史的位置付けに規定されたものであり、控えめに言って、有害なほど歪んでいるということ」
→セジウィックが言いたいことを端的にまとめると、このようになる。単に現在、「性の理論」が状況応答的に「ゲイ/レズビアンあよびアンチ・ホモフォビックな理論」に限定されているだけであり、つまり「セクシュアリティ」が「性的指向」に代表されてしまっているだけで、それは「特定の歴史的位置付けに規定されたもの」である。私の見立てでは、だから「ゲイ/レズビアンあよびアンチ・ホモフォビックな理論」はダメなんだというわけではなく、より広い視野を持つことによって、「セクシュアリティ」の意味を「性的指向」に限定するような言語実践の効果を見ることができるようになるという展開だと考える。


公理三 レズビアンとゲイの男性のアイデンティティをどの程度まで一緒に、あるいは別々に考えるのが良いのかは、ア・プリオリに決定することはできない。

・「このプロジェクトの当初、一番手近に利用できたレズビアンの解釈の枠組みは、1970年代に現れた分離主義フェミニストのものだった。その枠組みによれば、ゲイ男性とレズビアンとには経験やアイデンティティの上で共通点を見出す確かな根拠は本質的にはなく、また、それどころか女性を愛する女性と男性を愛する男性はジェンダーのスペクトラムのまさに対極にあるはずだということになっていた。(中略)この見方では、セクシュアリティの軸はジェンダーの軸と完全に同一の広がりを持つだけでなく、ジェンダーの最も高められた本質を表現する。」
→このあたりの詳細に関しては、レズビアン・フェミニズムの歴史を参照する必要がある。レズビアン・フェミニズムではある時期、「女性を愛する女性」と「男性を愛する男性」は、それぞれ「女性らしさ」「男性らしさ」の極に位置付けられる考えられた。その経緯は複雑ではあるが、レズビアンと異性愛女性の連帯の可能性を開くためであるとまずは言えるだろう。つまり、これまでのフェミニズムは、レズビアンの性実践自体に家父長制を見ており、レズビアンを遠ざけていたのだが、レズビアン、つまり「女性を愛する女性」とは、本質的に女性に同一化することであるという考えを持ち出すことで、連帯を可能にしたのだった。このような論理でいくとゲイ男性、つまり「男性を愛する男性」は、男性に同一化するものとなり、レズビアンとは対極に置かれる。この場合、「ゲイ男性とレズビアンとには経験やアイデンティティの上で共通点を見出す確かな根拠は本質的に」ないことになってしまうのだった。

・「しかし、1970年代後半から、レズビアンとゲイ男性の欲望とアイデンティティが対立的に位置づけられているというこの見解に対して、様々な異議申し立てがなされるようになってきた。」
→そのようにフェミニズムとレズビアニズムが癒着していたのだが、「性愛の標準化」という面で問題を持つようになった。「1980年代には、非標準化されるようなセクシュアリティがフェミニズムやレズビアニズムのなかにも可視的なものとして登場してきたということでもある。」(河口和也『クイア・スタディーズ』p.48)レズビアン・フェミニズムは、当時の状況に対する応答として、SM実践やセックス・ワーカーなどの非標準的な性実践を行う存在を毛嫌いしていた。ここにジェンダーの問題に回収されないような、セクシュアリティに関する抑圧の問題があったのである。そこで、ゲイ男性とレズビアンの間において「性愛の標準化」に対抗するという連帯が可能が見えてくるのである。

こうした歴史を踏まえて、セジウィックは「レズビアン理論は、フェミニズムと単に同じ広がりを持つわけではないこと、男性のホモ・セクシュアリティとレズビアニズムとの理論的な連続性をア・プリオリに否定しない」という前提に立つ。これまでの運動史を踏まえれば、こうした提言は効果的であり、重要なものである。ただ言っている内容は「XはAともBとも完全には一致しない」という形式で、積極的に運動にある方向性を打ち出すというより、色々な可能性を確保する宣言となっている(それが重要なのだが)。


公理四 自然 対 養育 についての一見儀式化されてしまったような古くからの論争は、自然と養育両方についての暗黒の仮定や幻想という、非常に不安定な背景のもとで行われている。

・「1980年代後半のゲイに関する著作で、序論に必ず書かなければならないお決まりのトピックがあるとしたら、それはホモセクシュアリティに関する構築主義的見解と本質主義的見解との対立についての論考と判決の試みだろう。」
→「同性間の親密性、性行為」という事象に対しては、大きく二つの異なる見解が存在する。それが「構築主義的見解」と「本質主義的見解」である。これらはそれぞれ「後天的」「生得的」な捉え方に該当する。「後天的」は、つまり「同性を性的に欲望するのは、育ってきた環境によるもの」であり、一方の「生得的」は「同性を性的に欲望するのは、その人本人の生まれ持った特質によるもの」と考える。今でも、どちらが正しい見解であるかは決着がついておらず、またこれまでのセクシュアル・マイノリティの社会運動史を見ても、どちらの見解を取るかが大きな問題となってきたのだった。セジウィックは、先ほども見た通り、この論争に何かしらの証拠を持って決着をつけようとしないという立場であった。

・「私は、マイノリティ化/普遍化という用語を本質主義/構築主義の代案(an alternative)として(同意義ではないが)提出している。」
→決着をつける代わりに(というよりも、このような論争は何の実りがないだろう)、論争を別の軸へと移すことをセジウィックは提案する。つまり、どちらの見解が同性愛に対応するのかではなく、つまり事象との対応関係ではなく、言語行為の中での実践に焦点を移行させたのである。セジウィックは「マイノリティ化/「普遍化」というワードを出しているのだが、発話実践における「マイノリティ化の見解」とは「同性愛行為をその人に根ざした特質に帰する見解」に対応し、「普遍化の見解」が「同性愛行為の可能性はあらゆる人に潜在しているとする見解」に対応する。これによって同性愛者や同性愛行為に対する議論において、そうした2つの見解がどのような効果をもつことになるのかにピントを合わせられるのである。同性愛者に対する処遇は往々にして、実際にそれがどうであるではなく、社会における認識、それに基づく言語実践によって決定されるのである。

「自然/養育」論争にまつわるの危険
・「この二項対立は本質的にゲイの集団殺害と結びつくような思考の連結関係を通り発展してきたのだが、もっとも細心なゲイ肯定的思想家にさえも、この二項[ 構築主義/本質主義 ]を集団殺害的思考から切り離せないのではないかと疑われれるからだ。」
→セジウィックが「自然/養育」論争を回避したいかというと、その両方ともが「ゲイの集団殺害」と地続きとなるような思考だからである。つまり「ゲイの集団殺害」を考えていなくても、またそれに対して「もっとも細心なゲイ肯定的思想家」でも、この二項対立の中にいる限り、「ゲイの集団殺害」へと帰着してしまう可能性をはらむことになるのだ。これがセジウィックの懸念点である。

・「たとえ文化的可変性が有効な政治学のための唯一考えられる戦域だったとしても、この構築主義的な自然/文化の議論にのっとって進む一歩一歩が危険をはらんでいるのである。はじめに文化的な可変性の場を確認し、次に文化的な操作のための倫理的あるいは精神療法的命令を創作し、最後に一人のホモセクシュアルも残さずに根絶するという西洋の支配的・衛生学的な幻想に至るという、一見自然な道筋に介入するのは極めて困難だ。これが一連の危険であり、これらに対抗するためにこそ、性のアイデンティティを本質主義的に理解することに一定の重要性が生じるのである。
→まず一つ目の危険が社会的管理である。つまり「同性愛的傾向への文化的矯正」である。こうした矯正は「同性間の親密性や性行為」を後天的とする構築主義的立場と親和性がある。つまり後天的であるゆえ文化的な可変性、経験による可変性があり、その性質を悪用し、人為的に「同性愛者」にさせないようにできるという論法である。こうした方向性に対して、構築主義的な立場を取って抵抗するとしても、前提が同じなために根本的な批判をすることが不可能になってしまうのである。そのため「性のアイデンティティを本質主義的に理解することに一定の重要性が生じるのである。」

・「しかし同時に、文化的概念構成体が格別可変的だと仮定することが問題だと考えられ来たまさにこのとき、生物学や「本質主義的自然」に基礎を置くことがアイデンティティを社会的な干渉から防護するための確固たる方法だと仮定することも、疑わしいことになってきた。(中略)ある特性が「単に文化的だ」という主張の方ではなく、遺伝子的または生物学的に規定されているという推論の方が、文化の技術装置において操作的幻想の引き金を引きことが増えている。」
→もう一つの危険が、生物学的管理である。つまり「遺伝的要因の技術的排除」である。これは先ほどの「同性愛的傾向への文化的矯正」の可能性を否定することのできた「ホモセクシュアルな身体」論の負の側面である。つまり「同性を性的に欲望するのは、その人本人の生まれ持った身体的な特質によるもの」とする本質主義的立場は、技術革新により、その原因となる箇所の特定と排除が可能にできるという論法と共犯関係を持つのだった。

「油断なく細部に注意を張り巡らして、〔ゲイの人々を〕尊重した、多元的で継続的に育てられるような理解を保たなくてはならないのである。」
→以上、「同性間の親密性、性行為」は、行為者の先天的な特性に基づくのか、それとも後天的なものなのか、と考えること自体が、ゲイの集団殺害可能性をはらんでいたのだった。そのため安直に一つの見解に決めるのではなく「多元的で継続的に育てられるような理解」を目指すこと、それがゲイの生を守ることになるのだ。そのためには「議論の厚み」が必要になることだろう。


公理五 いわゆる偉大なパラダイム・シフトを歴史的に探究することが、現在における性のアイデンティティの状況を曖昧にする可能性がある。

・「本書のプロジェクトは、近代のホモ/ヘテロセクシュアルの定義が、一つのモデルに取って代わりもう一方のモデルが衰退することによって組織化されていくのではなく、複数のモデルがある時期に共存し、その合理的な説明のつかない共存によって可能になった関係によってこそ、組織化されているということを示すことにある。」 
→ここで念頭に置かれているのは、ミシェル・フーコー『性の歴史1 知への意志』(1976)で展開されたセクシュアリティに関する断続的歴史観である。「ソドミーを行う人は一時的逸脱者だった。ホモセクシュアルはいまや一つの種族であった。」と指摘するように、フーコーは「同性間の親密性や性行為」に対する理解のパラダイムが1870年を機に「ソドミー」から「ホモセクシュアル」に転換したと考えている。こうした断続的歴史観は、対象に歴史を超えた本質を措定し、その本質に人類の対象に対する理解が漸近するといった進歩を前提にするようなホイッグ史観とは異なる。そのため「今日われわれが知っている形のホモセクシュアル」には歴史があり、またそれはある文化的状況から生まれたものに過ぎないという論理で、現状を相対化することができるのであった。ただこうした理解にセジウィックは疑問を投げかける。つまり、本当に「同性間の親密性や性行為」に対する理解は、新たな見解によって完全に取って代わったのかと。そうした単純な交替ではなく、現状は「複数のモデルがある時期に共存し、その合理的な説明のつかない共存によって可能になった関係によってこそ、組織化されている」のではないか、とセジウィックは指摘する。複数の矛盾する同性愛の定義が乱立しており、それらがどのような言語実践の場をつくっているのか、これを考える必要があるのである。フーコーの理解は、こうした複数の定義の矛盾を曖昧にしてしまい、問題を覆いかぶしてしまうのであった。

・「フーコーや彼に続く人々によって作られた物語の代替となる歴史的物語を[ ここで新たに ]構成するつもりはない。むしろ、この計画が要求するのはそれらの貴重な物語の内部で、注意と強調の場を再配置することである。おそらくはこれらの物語が輪郭を描き、沈黙のうちに(それ自体がパフォーマティヴだ)通り過ぎる、パフォーマティヴな矛盾の場に焦点を合わせることによって、これらを脱物語化する試みが必要なのだろう。」
→フーコーの系譜学とも言える言説は、一つの「代替」という物語性を帯びている。つまり巨悪の敵に主人公が勝つかの如く、大胆で簡潔な構造をしているのである。セジウィックは、こうした「フーコーが描いた物語」に対抗する別の物語を展開するのではなく、その物語に奇生し、その内部を書き換えることを試みている。それによって、強引に捉えたゆえに生まれた歪みを顕在化させようとしているのであろう。


公理六 文学的正典についての論争に対するゲイ研究の関係は曲折しており、また曲折しているべきだ。

・「文学的キャノンの問題についての現在の論争は、二つの可能性のまわりで、組織化される傾向がある。一つは、支配的な主流文学キャノンの内部で、テクストを再配列し再指定するという変化を起こす可能性である。もう一つは、今のところより理論的には擁護しやすいやり方だが、主流キャノンを破壊してその裂け目に、それぞれがテーマや構造や著者などで特定された無数とも言える多元的ミニ・キャノンを生み出す、また少なくともそのような場所を空ける、というヴィジョンである。」
→これまでの内容を考えると、同書は同性愛者の権利運動史に関する本のように思える。しかし、それは同書が置かれている文脈を明示することが目的であった。この本で主に取り組んでいるのは、19世紀末、20世紀初頭のイギリス文学の読解であり、大きく言えば文学研究である。これまでの公理が、セクシュアリティの理解の仕方、運動の態度について言及しているのに対して、この公理六は、アンチ・ホモフォビックな文学研究のあり方を示すものとなっている。
→文学研究では、過去の著名な作品群、いわゆる「正典」の読み解きが行われる。ただそれら「正典」における登場人物やテーマが、異性愛者に関するものに限定されいたりと、潜在的にホモフォビックであると言える。そこで①主流文学(正典)の再編成・読み替えをしたり、②マイノリティ文学(ミニ・キャノン)の確立をすることで対抗するというのだ。

・「しかし、これら二つのモデルがもたらしたより重要な効果は、実質的中心性は動かさないとしても、主流文学キャノンの概念的な匿名性(anonymity)に異議申し立てをしたことである。(中略)フェミニスト文学研究は、一方では女性文学の代替的キャノンをもって主流文学キャノンに立ち向かい、もう一方では主流文学キャノンの内部で反抗的読解を展開し、結果的に主流文学キャノンの目次をある程度再配列しただけではなく、より重要なことに、主流文学キャノンに名称[ 男性中心的 ]を与えたのであった。」
→ただ以上の二つのモデルを用いた文学研究を行っても、正典の実質的中心性は動かすことは難しい。ただ動かせないとしても、「主流文学キャノンの概念的な匿名性(anonymity)に異議申し立て」をすることは可能なのである。現にフェミニスト文学研究は、「主流文学キャノンに名称[ 男性中心的 ]を与えた」のであった。つまり「自明なもの」として扱われていたものに対して、「〇〇中心主義」であると命名し、批判することを可能にしたのであった。

・「アンチ・ホモフォビックなプロジェクトは、すでに説明したように、〔キャノンの批判や解体を進めると同時に〕現在のところ非正典的な材料からマイノリティのゲイ・キャノンを再創造することとの、はさみうちで進めなければならないのである。」
→セジウィックが特に強調しているのは「はさみうち」という言葉である。この「はさみうち」とは、①主流文学(正典)の再編成・読み替え②マイノリティ文学(ミニ・キャノン)の確立のことである。どちらか一方だけではダメで、両方が必要であるということであろう。運動においても、女性や黒人同様にレズビアン/ゲイとしてのアイデンティティが有効であったように、マイノリティ文学(ミニ・キャノン)という足場を持ち、プレッシャーを与えることが有効に思える。
→セジウィックは、先ほども指摘したように「支配的な「マイノリティ化の見解」がある中で、相補的に「普遍化の見解」を打ち出す」という方向を取るため、ゲイ研究に②マイノリティ文学(ミニ・キャノン)の確立を任せ、同書では①主流文学(正典)の再編成・読み替えを行なっている。


公理七 他者との同一化の経路は、奇妙で扱いにくいものだ。自己同一化の経路も同じである。

・「『男たちの間』の序論で、「男性のホモセクシュアリティについて(部分的にせよ)女性でありフェミニストである人間が書くこと」の政治的/理論的位置付けをどう見るか、短い説明をしなければならないと感じた。」
→セジウィックが意識をしているのは、「アイデンティティ」と「連帯」の問題と言えるだろう。つまり「自分が何(属性)と自己同一化しているのか」という問題と「ある特定の属性における問題に、どのような仕方でコミットメントできるのか」という問題である。今回で言えば、それは「男性のホモセクシュアリティ」という問題に関して、女性と同一化しているセジウィックが論じるという状況である。ただセジウィックは「あらゆるマイノリティには連帯しないといけない」という定言命令に偽善性を感じ、自分がどのような面で、ある問題にコミットメントできるのか。単に「カテゴリーを超えて同一化し、連帯しろ」という雑な議論ではなく、連帯と自己同一化の微妙な力学をセジウィックは考えている。

・「それは、もしかすると女性としての私自身の、ゲイ男性の言説やゲイ男性に対する関係が、ストーンウォール以前の(たとえば)1950年代のゲイの自己定義とよく響き合う、という事実に影響されてはいないだろうか。」
→セジウィックは、なぜストーンウォール以前の文学作品に興味を持ったのか。それは偶然にもよくわからないところで、自分の経験や感性と、当時のゲイの自己定義の仕方が「よく響き合」っていたからだという。


○他、気になる箇所

・セクシュアリティの定義が、誰の人生において重要な問題なのか。
「私は「マイノリティ化の」見解対「普遍化の」見解と述べている。後者の用語を選ぶのは、それが「ホモ/ヘテロセクシュアルの定義は一体誰の人生において主要で困難な問題であり続けるのか」という問いかけを示し、応答するように見えるからだ」

・セクシュアリティの「秘密性」
「性的欲望がたとえ一瞬の間でも透明でわかりやすいと仮定されたならば、驚くべき変態(メタモルフォシス)を遂げて来た西洋のロマンスの伝統(精神分析を含む)全体は、どこに存在し得るのだろうか。[ いや、存在している。→性的欲望が透明であったことは一度たりともない ]」

・差異のフェティッシュ化
「たとえば脱構築は、まさに差異=差延(differ(e/a)nce)の学問として創始され、差異の概念をあまりにフェティッシュ化したために、具体的差異が表現される可能性を希薄にしてしまい、結果的に今では、複数の特別な差異について考えるときには、脱構築の徹底的実践者に救いを求めるのはまずできなくなってしまった。」

・正典性(canonicity)
「正典性(canonicity)それ自体が、ある所定の文化が依存している矛盾し互いに深くからみ合った言説の土台を解体する可能性をはらんだテクストを、一つの世代から次の世代へとと伝える余地を残すのに必要な、敬虔な忘却の詰まっているものだとわかる。」

・正典における「生きた思考の関係」
「しかし、それが意義深いのは、キャノン内部の関係およびキャノン同士の関係が、生きた思考の関係であると考えている、私たちのような人間にとってのみである。」

・セジウィックのブルーム批判
「この自己矛盾した伝統を保護するためには、その欲望のエネルギーの充足を否定し、延期させ、沈黙させる、同じように持続的なプロジェクトが共存しなければならない。(中略)抑圧によって興奮しやすい状態にとどめて置かなければならなかったはずの、備給エネルギーのたくわえを消散させてしまったその責任を、ゲイ運動が負わなければならないということになる。」
「少なくとも、今はどのようにホモフォビックな禁止でも許される時代であり、「われわれにとって性的情熱はもはや危険ではない」というブルームの心配は、胸が痛むほど時期尚早と言えよう。」

・セクシュアル・マイノリティのクローゼット性
「この必要とされている進展のまさにこの側面は、クローゼットの内部からでは起動させられない。それが要求するのは、非常に数多くの人々が、自分がマイノリティの一員だ、とはっきり自らのアイデンティティを表現するという、危険に満ちた肯定的行為をすることだ。」

・連帯の偽善性
「まず、政治的に正しい学問的世界において、研究の動機について、口先だけの偽善的言葉や神秘化を助長しているように見える、あの定言的命令の武装を解除したかった。(中略)ある意味で、私は自分を人質として差し出そうとしたのである。」


○コメント

・同性愛者のみが、ほかの女性、黒人らのマイノリティと異なり「普遍化」と「マイノリティ化」の方向が拮抗する可能性がある。他は常に「マイノリティ化」である。

・「マイノリティ化の見解」と「普遍化の見解」の役割分担

・普遍化の見解を推し進めることは、リスキーな一面もある。

・「性的指向」の存在を自然化、つまり実在するものとして考える面も必要である。(それが「マイノリティの見解」)

・アクションというより「リ・アクション」、つまり「アクション」がないと始まらない。

・差異に基づく運動、差異を超えた運動

・編集者・松岡正剛は『クローゼットの認識論』の序論に対して、このようにまとめる。

「これはセジウィックが痒いところに手が届くようにセックス/ジェンダーにまつわる複雑性を整理したもので、ただしその整理によってわかりやすい分類や分岐ができあがるのではなく、複雑性を「重なり」や「捩(ねじ)れ」や「逸れ」のままに説明しようとしたものだった。」(松岡正剛の千夜千冊「クローゼットの認識論」)



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