【論考】「知の家庭菜園」のすゝめ①
東西冷戦が終わり、多文化主義と資本主義がグローバルに展開されている今日、我々の共通の尺度として残っているのは、もはや「価格」のみとなった。また大学等の知的権威も失墜し、 今まで存在感のあった知識人は、今やSNSの「小さな批評家たち」と同列と化している。このようにハイカルチャーとサブカルチャーの見分けがつかなくなり、あらゆるものがスーパーフラットとなった「ポストモダン」な世界に、我々は生きている。
すべてがスーパーフラットになったと思いきや、我々は、その小粒たちが生み出すコンテンツの濁流に飲み込まれている。ニュースにせよ、SNSの投稿にせよ、社会批評にせよ、小説にせよ、まとまりの無い小粒のコンテンツたちが有象無象に我々に押し寄せている。もはや我々はそれらを処理しきれず、何の収穫のないまま、その濁流にただ身を預けるだけになってしまっているのではないか、と思う日々である。また、そこでは、成熟した思考は育たず、即時的な反応とでも言える思考に支配されているのではないだろうか。この「ファスト思考」とも呼べるものこそ、ポピュリズムの源であると、私は考える。
永田希の『積読こそが完全な読書術である』は、そんな「ファスト思考の時代」に対抗する知的技術として「積読」の可能性を説いている。積読とは、買ったはいいものの読まずに脇に積んでいる本のことである。先程言ったように、本も他のコンテンツ同様濁流のように溢れかえっており、積読が増えていく一方だ、という人も多いのではないか。そこで永田は、以下のような提案をする。
ここで出てくる「ビオトープ」とは、「小さな生態系」のことを指している。また「自律的な積読環境」とは、自分の書棚のことを想定しており、永田はそこがまるでビオトープのようになっていると言いたいのだ。そして、このビオトープが、自分の思考の足場、自己の輪郭となり、コンテンツの濁流と上手く付き合えるというわけである。
ただ、興味ある本を積んでいるだけでは意味がない。自分の書棚をビオトープにするには、本を常に組み直していくことが必要である、と永田はいう。
ここで語られているのは、「本棚の新陳代謝」というものだろう。例えば、私たちの体の細胞は常に入れ替わっている。古い細胞は外に出され、新しい細胞が作り出される。ビオトープも生物の集まりであるため、同様のシステムを備えている。それと同様に、本棚をビオトープに見立てるのならば、内容となる本を固定化するわけにはいかない。本を変えないことは、思考の硬直化を意味している。ビオトープに新しいエネルギーを送り込まないと、中にいる生物が死んでしまうように、本棚に新しい本を入れないと、本棚は息づかないのである。むしろ、その新陳代謝が生み出す柔軟性が、濁流と上手く付き合うための鍵と言える。固定さているものは強いが脆く、一方柔軟なものは一見頼りないが、健やかなのである。
私は、この永田の「(川の)濁流」に対する「ビオトープ」という比喩を引き継ぎつつ、新たに「農家」と「家庭菜園」という比喩を用いて、暮らしにおける本との付き合い方を考察したい。
②へ続く。
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