見出し画像

思っているほど乗らない

信用とか、信頼とか、そういうことを最近ちょいちょい考える。
色々な意味で人間関係を構築・継続することが難しいわたしは、老いて死ぬ時にそばにいてくれる人なんて夫くらいしかいないのではないかと思う。あー、でもわたし2100年までは生きる予定だから見送る側である可能性が高いな。逝く時に娘がいてくれたら嬉しいかな。もしかして孫かな。

コロナ禍よりもだいぶ前に、自分をハブにして人との繋がりを保つために力を尽くそうとすることをやめた。だって自分が頑張ったってどうしようもなかったり、逆に自分が繋がりを壊すことがあったり、驕りその他で傷つけてしまったりするから。それなら付き合いが薄くなってきた同級生や知人友人に対して広く網を張るより、もっと身近な家族や今親しくしている人たちに対してエネルギーを注いだほうが良いと思った。

自分が頑張ったってどうしようもない、というのは、自分も相手も変化していくものだからその過程で自然と距離が離れてしまうのは避けられないことよね、という意味。すがりついても仕方ない。ここはもう潔く手放して、またいつか縁があって近付くことがあるなら、その時にできる限りのことをすれば良い。その時のために自分のレベルを上げたほうが良い。まあ、その時が来るかはわからないけど。古い友人のために鍛えていた何かで新しい知人の力になれる可能性もあるわけで。

「手放したら別のものが入ってくる」って言うけど、そもそも手のひらにそんなにたくさん乗り切らないよね、っていう。野菜ならたくさん乗っても(一日に両手分の野菜を食べましょうって言いますやん)、こういう時にわたしの頭に思い浮かぶのは砂で、砂は両手にすくい上げてもそんなにたくさん乗らないし、なんなら手や指の間からこぼれ落ちていくじゃないですか。

それだけ儚いものなのだよなと思っている。儚いから大切にしたいのだけれど、なかなかどうしてそれも上手にできないのだな。
40年近く生きてきて、たくさん失敗して、それでも未だに失敗して反省する。学習できているのかはわからない。しても忘れたりするし。

まあ、一度繋がったご縁はなんやかんやで続くものだとも思ってる。学校の同級生とか、勤めていた会社の同僚とか、うーんと遡れば幼稚園の頃に同じアパートに住んでた同い年の子とかまで、「今元気かなー、幸せであるよう祈ってるぜ」ってそっと思いを馳せることはありますからね。ある意味で重い片思い。たぶん向こうはわたしのことなんて忘れているし、「あー、そういやあんな変わったやついたなー」くらいにしか思われてないと思うから。

まあ、それでも幸せであってほしいと思うな。ムカつくやつには「あいつは足の小指を角にぶつけ続けちまえ!」みたいな小指の呪いはかけることある。あとは残尿感がずーっと続く呪い。自分がかけられたらと思うと堪える、それが残尿感の呪い。

*写真は明日までそごう千葉店でやっているテラダモケイの展示会で撮ったもの。これ面白いなとは思うんだけど組み立てる気力はないんだなあ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?