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メディアの価値とは何か#90

メディアとは何か。何を価値として存在し、定義されるものなのだろうか。

そこには多くの変数が含まれていて複雑にも見える。たくさん見られた記事はそれだけ注目を浴びた記事だ。だから閲覧数(PV)というのも大事な指標であろう。だが果たして注目を浴びる記事がメディアの記事としての答えなのだろうか。おそらくそれは違うだろう。そこには「正確性」と「イデオロギー」というキーワードが抜けている。

芸能人のゴシップネタがいい例だ。たとえそれが注目を浴びる記事で閲覧数を稼いだとしても、ゴシップには正確性がかけているし、イデオロギーを形成するにはあまりにも品がない。つまり閲覧数というのはあまり意味がない。正確には、「閲覧数だけ」見ていては意味がない。そこには中身が伴う必要がある。

結局はその記事を「誰が書いているのか」あるいは「その記事はどこが発信しているのか」というブランディングに似た要素が多分に含まれてくる。

とある業界で権威あるメディアとなれば、当然信頼を獲得し、多くの人が安心して記事を読めるようになる。そこには「バズる」ほどの記事がもしかしたらないかもしれない。しかし、それよりも視聴者のベネフィットを大切にする。この「信頼性」に似たものを、どうやって指標として図るべきなのか。

その答えは、僕は「記事をどれだけ回遊したか」にかかってくると考えている。

結局、閲覧する人が何をメディアから享受するかといえば、「知の欲求」だと僕は考えている。芸能ゴシップネタなどはメディアとしての価値は僕自身ないと感じているが、それでもそれらのネタもメディアとして取り上げられる必然性は必ずある。なぜなら、それに関して情報を欲するユーザーがいるからだ。特定のジャンルにおいて、何かしら情報をたくさん得ようとする人がいれば、メディアはそれらの欲求を受け入れる姿勢を見せなければならない。つまり、知の欲求に応えるべく、たくさんの記事を読み周りさせる必要がある。

1つの記事を見て、そこから違う興味が湧き、派生して次の記事を見ていく。この終わりのない旅をメディアのなかでどれだけ実現できるか。それがメディアとしての果たす役割であろう。

閲覧された数、そして回遊された数、閲覧された時間。この掛け算によって、メディアの価値は一定の指標として見ることができるのではないか。

あとはどれだけ満足したかという定性的なものになるが、閲覧者の心の中まではわからないいので、SNSでシェアされた数やサブスクリプションに登録した数などで推し量るしかない。しかし、この時点になると、メディアとしての価値を超えた、ビジネスとしての価値へと様態が変わっていく。愚直に真面目な記事ばかり書いていても、シェアはされない時代である。シェアを追求するならば、ある程度大衆化する必要もあり、そこはトレードオフにならざるを得ない。

サブスクリプションもそうだ。そこにはUI/UXとしての考え方、ビジネスモデル、様々な要素が加わってくるため、純粋なメディアの価値としての指標としては捉えにくい性質がある。

メディアがユーザーに享受させるのはあくまで「知の欲求」である。そこをいかにくすぐることができるか。そこに価値の源泉が眠っているのである。


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