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常識は突然非常識になる。つまり常識とは常識ではないという話。

これまで常識とされていたことが、突如として非常識になる。

コロナ禍によって、その無情な変化を僕たちは強いられている。

しかし、しばらくすると、面白いことに今までの非常識が常識となり、今までの常識が非常識になる。

つまり、常識というのは時代によって、世の中の出来事によって、その都度変わるということを受け入れなければならない。常識とは、普遍的なものではなく、流動的なのだ。

にもかかわらず、その時の常識は、世の中の当たり前として認識され、多くの人たちがそれを守ろうとする。

もちろんその常識というものは、社会というものを形成するためには不可欠だ。ある一定の集合知のようなものが作られることで、それを生きるための物差しにする。心の安定を手に入れる。

しかし、昨今はSNSを中心に、あらゆる情報が出回り、フェイクニュース、デマ、ヘイトスピーチなどが蔓延っている。常識の物差しが揺らぎ、なにが常識なのか、個人で判断できないという事態が起きている。その結果、例えば自分の好きな芸能人や、周りの人たちの意見に傾聴し、その意見をなかば鵜呑みにしてしまう。

それは、一種の防衛反応のように見える。自分の身内の世界に閉じることで安心感を得ようとする。

それ自体は、常識と捉えるメカニズムそのものなので特になにも悪くない。

問題だと感じるのは、その常識を他人に押し付けようとするマウンティングだ。

50億人の人間全員が、同じ常識を持っているわけではない。そこには、大きな常識から小さな常識まで、たくさんの集合知が集まっている。

地球は丸い。これは世の中の常識だ。

風邪を引くとマスクをする。これは日本の常識だ。(コロナの前までは)

エスカレーターでは左側に乗る。これは東京の常識だ。

どんどんグループは小さくなり、やがて個人単位の常識へと向かっていく。

常識とは、その人の環境によって大きく変わり、さまざまな常識の集合体と、相反する非常識の集合体が合わさり、微妙なバランスの上で大きな常識が作られていく。

もしその成り立ちが「常識」なのであれば、非常識があることで常識が成り立つことになる。このパラドックスが世の中の真理だ。

他人に常識を押し付けるという行為は、世の中のパワーバランスを保つ意味では正当化されるかもしれない。しかし、そのパラドックスからははみ出ている。

常識を持たない人間が、新たな常識を作り出す。

創造的なアートを作り出す。

非常識こそが、守るべき対象である。

自分の価値観を押し付ける行為、マウンティングする行為は、愚かだということだ。

他人を尊重する。その中身は、それぞれの常識の物差しを観察することであり、介入することではない。

対立が生まれた時、その時は物差しを替えるのではなく、物差しの長さを変えることだ。

息苦しい意見の押し付け合いは、他人に介入すればするほどリスクが高まる。

脳が作った印象によって生きる僕たちは、新たな価値観が入ってきたとき、柔軟にその常識と戦わなければならない。

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