「ここまで生きたら、もうずーっと生きてる気がするよ」


「もし赤ちゃんがお家にきたら、小さいおもちゃはしまうの?」

兄弟を欲しがるようになった息子に「もし赤ちゃんが来たら〇〇するの?」と聞かれることが多くなった。出産予定はないけれど。度々繰り返されるその問いに、答え続けている。

「しまうよー。何でも口に入れちゃうからね。きみが赤ちゃんのときだって、こんなに小さいおもちゃはなかったんだよ」

予想通りの返事に、納得した様子の息子。その興味は、次から次へと移って忙しない。

けど、今日は違った。

お馴染みのやりとりが、子育てに悩む私を救ってくれることがある。


「あんなに小さかったきみが、こんなに大きく育って元気いっぱいで、ママは本当にうれしいなって思う」

ひとりで歩くことも話すことも、お腹を満たすことも出来ず、ただひたすら泣いていた赤ちゃんのころ。泣いたらずっとおっぱいをあげていた。泣いたら抱っこしたりおんぶしたり、泣いてなくてもずっとくっついていた。

蔦に絡めとられて身動きできない息苦しい日々。当時はあんなに苦しかったのに、しんどい思いをした、という事実が頭の片隅にあるだけで、その感覚は中途半端にかかった麻酔みたいにぼやけている。

「ずっと一緒にいられるのは今のうちだけだから」

「苦しいのは今だけだから」

「あっという間に大きくなっちゃうから」

「今を大事にしたがいい」

子育ての悩みを相談すると、そんな風に励まされることがある。
正しいことを教えてくれる。でも、やさしくない。

しんどいって打ち明けてくれた過去の私に、もし会えたとしたら、今の私は違う言葉を選ぶ。

ぐっすり眠れるように一人の時間を持てるように、家事も育児も引き受けたい。

どんな話だって否定することなく、ただひたすら、うなづきたい。

「だんだん楽になるよ」は噛み砕くと「今の問題は消えて、また新しい問題に出会うよ」だし、

「今を大事にしたほうがいいよ」は、正確には「あの頃は余裕がなかったけど、振り返れば自分にとって貴重な時間だったとわかった」だ。

「今の知識と経験を持ったまま過去に戻って、あの頃の私を息子を、抱きしめてあげたい」と思う今の私が、過去の私を癒す。未来の私が、今の私を癒してくれる。


きみが大好きだよ、大切だよって、日頃から臆することなく伝えている方だと思う。BGMみたいな言葉は、ありがとう、とか、ぼくもだよって、いつも通り息子に流されると思っていたけど。今日は違った。

「えー、ぼくもう5歳だからさ、ここまで育ったらもうずっと生きてる気がするよ」

そっか。
そっか、そっか。
それはすごい。
そうであって欲しい。

次々に浮かんでくる言葉は、こみ上げてくる思いと、あふれる涙でつっかえて、何ひとつ出てこなかった。お風呂場でよかった。微笑んでいたから涙がばれない。

息子はまだ知らない。
さよならは、息子にも私にも誰にでも、突然訪れることがあることを。

生きているのは当たり前のこと。
微塵も疑わない心を持ったままの息子が眩しい。

私は今の息子と同じくらいの歳のころ、冷たくなった妹に触れたことがある。病院から家に帰るため、父が運転する車に乗せられていた。母は助手席に。後部座席で、おじいさんに抱かれた妹の隣に座っていた私は、そっと手を伸ばした。「冷たい」と私が呟いたときの母の顔は知らない。やわらかくてひんやりした感触は昨日のことのように生々しく残っている。 

理解したのはもっと後のことだったと思うけれど。
そのときから私にとって「死」は、息を潜めてはいるものの、その感触と一緒に、いつもすぐそばにあるものになった。

無理だとわかっていても、息子にはいつまでも元気でいて欲しい。いつかそれを知ってしまうとしても、身をもって教えるのではなく、そばに寄り添う私でいたい。

そんな風に思う自分を知って嬉しくなった。
出会えたことに感謝して、祈りたくなった。

喜怒哀楽すべてを享受する毎日。
暇を持て余すこともなく退屈に感じることもない毎日。

しんどいしんどいって静かに泣きながらここまで生きてきた私は、これからもしぶとく生きていくんだろう。たとえ会えていなかったとしても。

だから「子どものために、それだけのために生きてる」なんてほとほと夢にも思わない。私がそんな風に思われたり言われたりしたら、その計り知れない重みに押し潰されてしまう。

「あなたのために」を分解していくと「そうなったあなたを見たい私」が見つかる。自覚しながら、ゆるされる限り、今日も明日も私は生きる。