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「素直」と言われることについて。

今日はずっと書きたいと思いつつ、書いていいのだろうかと思い、まとめ損ねていたものを書いてみようと思います。
(もしかしたら私の伝え方が悪くて読んでいて不快になる人もいるかもしれないです。読んでいる途中でモヤっと、イラっとした人、今メンタルが元気でない人はすっぱり読むのをやめてください、傷つけてしまうことになりそうで怖いです。あといつも以上に自分のことを自分で理解したいがためだけの自己満noteになっています。ご了承ください。)

「素直」「自然体」と人から言われることが最近増えた気がします。私自身はそう言われるたびに、そうなのかな?と思いつつ特に気に留めてきませんでした。自分のあり方はだいぶ感覚的なものだと認識していたからです。今まで自分がどう自然体なのか、どう素直なのかなんて改めて考えたことはありませんでした。でもふと、自分が人とどう関わっているのかを言語化してみたらどういうことばで表せられるのだろうと思ったので、書いてみることにします。

自分が「素直」「自然体」である自覚はあるかのかと問われれば、半分あって、半分ないです。「素直な自分」「自然体な自分」をつくっている自覚はあります。自然体をつくるという時点で矛盾している気もしますが。例えば、この人とってもすきだなぁ(ここでは人間的なすき)、この人ともっと仲良くなりたいと思う人がいるとします。そんな時、ただ素直だからと言って、自分がそうしたいという理由だけでその人に嫌われるようなことはしません。むしろその人が自分のことを好いてくれるような振る舞いや行動をとっています。たぶん無意識内で。優しく思われる方がその人が関わってくれそうなら意識的に優しくしたり、頼れる人だと思われたかったら頼れる自分を演じてみたり。

でも極度に相手に合わせたり、演じるなどの無理は全くしていません。表面は柔軟に変えても、芯となる行動の主導権は自分のが持っているようにしています

例えば会議などがうまく進まず、みんなが疲れているような状況があるとします。そんなとき、私はよく踊ります。踊るんです。それは1つはその場を和ませたい、一度この場に休憩の空気を作りたいと思うと同時にただ自分が踊りたいから

疲れたーーーという疲労の感情を体をふにゃふにゃさせることで発散したい。空気も読みつつですが、たまに踊ります。でもまぁ当たり前ですがそれを受け入れてくれる人たちの前でしかやりません。多分安心して自分が自分を出せる人、環境でないとそんなことはできなくて。でもそれをみた周りの人が自分のことを「素直」と評してくれます。

私からするとごく当たり前なことで。だってそれを受け入れてくれる人たちの前だからこその行動だから。逆に言うと私は自分が自分でいれない人や環境との関係は切ってきました(関わり続ける体力がなくて気づけば関われていない人や環境もあるけど)。自分はどこで、誰と関わっている時が楽しく、居心地よくそのままの自分で居られるかを大切にしているので、それに合わないところからは逃げてきました。だから必然っちゃ必然なのかもしれません。

だからなのかはわかりませんが、周りの人たちのことをとっても大切に思っています。それをきちんと適切に行動や言葉で表しきれてはいないけど、一人ひとりめちゃくちゃ尊敬してます。今読んでくれている(もしここまで読んでくれてる人がいたらだけど)あなたのことも私はどこかしらすごいなぁって思ってます、きっと。

「愛情」って循環すると思っていて。ここ、嫌な人は読まないでください。私は周りからだいぶ愛されて育ってきた自覚があります。特に何不自由ない環境で育ってきたからかもしれませんが誰からも愛情を受けなかったと思われる日はなかったように感じます。よく人間性は遺伝か、環境で作られるのかと言う話がありますが私はだいぶ環境に作られていると思います。だからありがたくも人から素直と言ってもらえる自分のこの性格は、環境という外的要因で出来上がった偶然の産物で、自分がコントロールして自然体になりたいと思い出来あがったものではないです、きっと。

だから何が言いたいってことも特にないのですが、例えば逆に自分に素直、人に素直になれない人がいたとしてそれはあなたのせいではないと思います。あなたに素直でいることを許さない環境、人のせいだと思います。そう思ってしまえばいいんです。そして自分が自分でいられる場所を探せばいいんです。今のあなたを形作っているのは周りの環境だと思うから。もし何かがうまくいかず自分のあり方に違和感を持っていたり、ストレスを感じるなら逃げてしまえばいいと思います。

なんだか自分を責める人がすごく多い気がしていて。ただあなたは自分の幸せだけを見つめていればいいはずなのに、自分で色々背負い込み過ぎたらしんどくなります。

もし自分に存在意義があるのかわからないって人がいたら1回ご飯いきましょ、私はあなたのこときっと好きだから(すでに関わりがある場合に限る)。そりゃ全部を好きかどうかは責任持てませんが、尊敬していたり、好きな部分1つはたぶんあります。そのあなたの素敵なところ伝え続けます。


なんだかそうやって気軽に、もらった愛情を回していきたいんです。偶然多めにもらってきた愛情を自分が今度は大切な人たちにお返ししていきたい。なんだかそれが自分の根源な気がしてきました。たらたらと長くすみません。ここまで読んで「幼稚な考えだな」、そう思ったならそれで良いです。自分が心地いいように振る舞うなんて「大人な振る舞い」ではないと思います、自分でも。でもまぁ私は大人な振る舞いよりもこっちの方がすきです。

なんだかそうやって自分のそのままの姿を受け入れてもらえることを何度か経験すると初めての人に対してもそのままでいけるんじゃ?と思いました。敬語を使わないとかではありません、自分を必要以上に取り繕わないということです。やってみたらそのままの自分で関われるようになりました。案外この社会、受け入れてくれるいい人もたくさんいます。かっこ悪いとことか最初に出してしまって、いらないプライドは捨てて、等身大の自分で最初から関わってしまえばその後もかっこつける必要なくそのままでいれるので自分がただただ楽です。

年齢問わず私の関わり方は基本たぶん一緒です。私は年上=偉いとは全く思わないので、ただ素敵な人と心地の良い関係を作りたいとしか考えてないかもしれません。この前小学生の女の子がメダカのことを教えてくれました、とっても嬉しかったです。

こんな感じのふわっとした考えが行動として外に現れる時「素直」と見てもらえるのかもしれません。ずっと昔からそんな考えで来れている訳ではないので1ヶ月後には正反対のことを言ってるかもしれません、そんな時はごめんなさい。でも今のところこんな感じで私は日々生活しています。長々とすみませんでした、おわり。


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