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”できない自分”を見ることができない

「さきはなんでもできるね」
「さきは本当頭がいい」
「さきはしっかりしてる」

そうやって幼少期から褒められ伸びた私。

いつしか、
「何かができない自分」「何かと比べて劣っている自分」を直視することができなくなっていた。

中学2年生まで苦手だった勉強も、
高校受験の勉強をきっかけにコツを掴んで楽しくなり
成績はぐんぐん上昇。

高校時代は学科内でも5位以内には入るようになり、
クラス内では1位、2位がほとんどだった。

専門学校でも勉強が楽しく、常にクラスの中で上位。
1年生の時点で国家試験の模試も合格点。

「さきちゃん本当頭いい」
「優秀」
「バランスよくなんでもできるよね」

周りの人からそう言われ続けて、
高校時代も専門学校時代も、
先生たちの間で私の名前は”成績優秀者”として有名だった。


こういうと人によっては、
「いけ好かない嫌味なやつだ」と思われるかもしれない。
「なんだよ、自慢かよ」と思われるかもしれない。
「いいよな、自信があって」と思われるかもしれない。

でも決して嫌味でも自慢でも自信があるわけでもなく、
当の本人である私は
実はとっても苦しんでいたんだ。



”できない自分を見ること”
”できないんだと思われること”

私にとってこれほど怖いことはない。

「できません」「苦手です」「分かりません」「教えてください」「助けてください」

これは私が誰かに伝えるのに
とーってもハードルが高い言葉だ。

有難いことに
ずっと誰かに褒められてきて、
先生や親に評価されて、
鼻高々と過ごしていた私。

気がつけば、
もうその ”優等生” ”いい子” という台から降りられなくなっていたのだ。

できない自分を見るのが嫌だから
できることだけをしよう。

そうやってちょっとでも「できないな」と思ったら辞めて
ということを何度も繰り返していた。

「すごいすごい」と持ち上げられて
どんどんと積み上がっていく自己愛。

その反面

すごくない自分を見たくない。
すごくない自分には価値がない。
そうやってどんどんと下がっていく自己肯定感。

こんな悩みを言おうもんなら
「それはできる人の悩み」「嫌味?」「いいね、できる人は」
そう言われ、誰にも相談できなくなる。


最近、この辛さの正体にやっと気づいて、
こうして言語化することができて
だいぶ気持ちが楽になった。

あーそりゃ辛いよなと。

そしてここから脱するにはゆっくりゆっくりと
上がってきた台から降りていくしかないのだ。

できていてもできなくても自分の価値は変わらない。
できないことやわからないことは恥ずかしいことじゃない。
褒められなくても、誰も見てくれてなくても
自分なりに最善を尽くしたならそれを自分で認めてあげる。

これが大事。

なので今は”できない自分”を見る練習中。
「できません」「苦手です」「分かりません」「教えてください」「助けてください」を伝える練習中。

今でもまだまだ
馬鹿にされたら嫌だなって思ってしまうし

そうやって自分で思う癖がついてるから
「あ、今の一言、馬鹿にされたな」
「今絶対ガッカリされたわ」

と勝手に考えてしまうこともあるけれど。

少しずつ少しずつ降りて行こうと思う。


もし、同じように悩んでいる人がいるならば
このNoteが少しでも心の救いになりますように。


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