他者への評価=自分自身。

自分が「その人に対して行った評価」=「自分自身」である。

もしかするとこれは、

多くの方にとっては不都合な真実かもしれませんし、
正直なところ私も
見られたくないところを覗かれるような「いやな感じ」がします。


ですが、とてもたいせつなことなので
今日はこのことについて書きたいと思います。

例えば私が、「イライラしている人」を見かけて「この人は短気だ」と思ったとします。
上記の公式に当てはめると、私が「短気な人物」ということになります。


記憶している限り私は、
人から「あなたは短気だ」と言われたことはないですし
どちらかといえば「温厚な人」だと言われることのほうが多いです。

ですがやはり、

私が、ある人のことを「短気だ」と思った。
もしそうなら「私こそが」短気なのです。


正確には、私の中に存在する「短気な私」が反応して
「他人を短気だと評価し」、そのことによって自分の中に
「短気な自分がいることを証明した」のです。

---1人の人の中には、様々な性質が混在しています。

ですがそれらの性質は内面でせめぎ合っていて、上記の例でいうと

「温厚な私」と「短気な私」、それに加えて「賢い自分でありたい私」や「イライラするくらいなら楽しく過ごしたい私」など、色んな自分がせめぎ合っているのです。

忙しいですね。。😂

そして、せめぎ合った結果、まぁまぁの確率で「温厚な私」が勝つ。
だから、他人には「短気な私」をあまり見せずに済んでいます。

そしてポイントになるのは、私自身が「短気な私」のことをとても嫌いだということです。

このように、ネガティブな反応が表面化したとき、人の内面は複雑です。

そしてその複雑さ故に、表面化している態度と本心が食い違っている場合があるので、注意が必要です。

話が少し逸れました。

上記の例でいうと、

もしも本当に温厚な人が「イライラしている人」を見かけたとしたら、「この人は短気だ」と評価する前に、「なにかショックなことでもあって余裕をなくしているのかな?」と心配してあげるでしょう。

これについてはなんとなく納得していただけるのではないでしょうか。

一言でいうと人は結局、同族嫌悪なのです。。

もう一つ例を挙げます。

例えばAさんという人が、Bさんを「儲け話で他人から甘い汁を吸おうとしている人」と評価したとします😅

すなわちAさんは本心では、「他人から甘い汁を吸って儲けたい」のです。でも多くの場合は、やろうとしてもできないか、それをする前に自分を諌めるでしょう。

でもどちらにしても、既にAさんの内面に「そういう自分」あるいは「そういう願望」が存在していることを「他者への評価」によって証明しています。

ここでポイントになるのは、実際にBさんがどういう人なのか、ということは関係がないということです。

フォーカスしているのは、Aさん自身の内面や猜疑心についてであり、Bさんが実際にどういう人かということではありません。(というか、事象はつねに人の内面でしか起こらないのです。。)

ではやっと、私がこの記事で伝えたいことの本質に触れて行きたいと思います。

「その花を美しいと思う、あなたの心が美しい。」

(この言葉、どなたの言葉なんでしょうか。シンプルでとても素敵です。)

これも、同じ公式に当てはめることができます。

花を見て美しいと思った。それは、自分の心の中にある「美しさ」と共鳴しているからに他なりません。

人は、既に自分の中にある要素と、

自分の外で起こった(ように見える)ことを結びつけて評価し、

その評価によって「自分がどういう人間であるか」を自分自身や世界に向けてプレゼンしています。

だから、人や物事の良い面を発見し、それを認めるということは
イコール、自分の良い面を見つけて認め、自分に対してプレゼンした
ということになるのです。

この逆をやってはいけない理由が、ここで理解していただけたのではないでしょうか。。

(あなたが良くないと思う)他者の面を、ネチネチと思い続けたり、文句を言い続けることは、自己肯定と真逆の行為であり、ただでさえ限りある人生のリソースを浪費していると言えます。。

(もちろん、これを自己分析に使うのは大ありです。私も何度となくこれを行ってきましたが、深い深い海に潜るようでとても苦しいのて、信頼できる人やコーチなどの助けを借りたほうがいいかもしれません。。)

とても長くなりましたが一番言いたいことは、他者の良い面にフォーカスすることで、自分の良い面にエネルギーを注ぎ、育てよう!ということです。

本日の記事はここまでとなります。最後までお読み頂きありがとうございます。

ではまた次回に!

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