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今日が2011年の3月10日かもしれない

3月11日。
宮城出身の私にとって、この日は一歩前に進むための大切な1日である。

そう、東日本大地震だ。

少しづつ元気になってきたものの、12年経ってもこの日が近づくと、軽度とはいえこの時のPTSDが僅かに残っている私は涙が止まらなくなる。

けれども、この日は私にとって、また前を向いて1年を歩むための大切な日なのだ。

この日に私がみたこと

2011年3月11日午後14時46分。
マグニチュード9の大地震。
そして多くの人が犠牲になった大津波が発生。

この日、大学3年生だった私は、就職活動の資料を取りに大学へ行っていた。
地震が起きたのはこの帰り道だった。

風で揺れる木々のように電柱が揺れていた。
思わず近くの電信柱にしがみついた。
周囲から食器の割れる音、悲鳴、混乱の声が聞こえ、すぐ後ろのブロック塀が崩れ落ちた。

実家の近くにいたので、揺れが治ってから急いで家に向かった。

周囲が凹んだマンホール
写真のように波打った道路
親戚の家の前の平屋は崖から崩れた土砂が流れて、道路が寸断される一歩手前のところまで傾いていた。

実家の近所。震災翌日に撮影


電線で支えられていたので余震で崩れる可能性があり、
油断できなかった。

慣れ親しんだ実家の周りに信じられない光景が広がっていた。

外でも何が起きているかわからなかった。


電気が止まりTVが見られない。
代わりにラジオからは聞き慣れた街や河川の名前に加えて、残酷な情報も流れてくる。

余震の恐怖と同時に、大好きな故郷を襲っている現実を想像して混乱してしまい、一晩中涙が止まらなかった。

1ヶ月後に出会った一つの腕時計

あの日から1ヶ月後の4月11日。
私は津波が街を襲った石巻でボランティアをしていた。

担当された家に行き、ヘドロや、近くの製紙工場から流れてきたパルプの除去をするボランティアだった。

震災から1ヶ月しか経っていないため、電柱に車が縦にもたれかかっていたり、晴れているのに目の前の世界は茶色がかっていた。

私が担当した家にはおばあちゃんが住んでいた。
1階部分が津波に襲われた家だった。
濡れた畳を家から出し、畳の下や床、箪笥の中のヘドロをひたすら掻き出していく作業だった。

パルプと海水、ヘドロが混ざった匂いは、この世のものとは思えないくらい臭かった。
ヘドロの中に魚が何匹も見え、「海から津波が来た。」ということをより現実的にさせた。
※この時、大学の後輩の家に寝泊まりしていたが、後輩の母親から言われた「魚で良かったよ。人が出てくることもあるからね」との言葉もとてもショックだったことも覚えている。

その時だった。
捨てたヘドロの中に、何か丸くて光るものが見えた。
なんだろうかと気になり取り出してみると、一つの小さな時計だった。
おばあさんに尋ねてみたところ、日常的によく使っていた時計だという。

見つけたことに気を取られてしまってすぐに気が付かなかったが、なんとこの時計、動いていたのだ。

1ヶ月間、止まらずに動いていたのだ。

その事実をおばあさんに伝えたら、涙を流してありがとうと言われた。

同時に、あの日からちょうど1ヶ月を伝えるサイレンが街に響いた。

「自分が生きている今は、誰かが生きたかった今なんだ。」

それから1年間は就職活動をしながら、大学時代の友人のツテを利用して気仙沼などの地域にも足を運んだ。

火災の話、打ち上がった船を見て、涙が止まらないのは変わらずだった。

震災の前の日は、みんな変わらない日常を過ごしていた。
それがたった1日足らずで何も無くなってしまった。
大切な人を失った人もいる。

それからずっと、私は3月10日になると自分にある言葉をかけるようにしている。

後悔がない今を生きているか。
今日が2011年3月10日だったら、仮に次の日にあのようなことがあっても前に進める人生を歩めているか。

2019年に息子、昨年には娘が生まれて私は2児の母になった

時間に余裕がなく、やりたかったことができないことも多々ある。
それでも1日が終わるころには、今日も何もなくてよかったと、ホッとして寝ることができている。

3月11日。
きっと私は思い出して泣いてしまうかもしれない。
けれども14時46分を境に、また一年、気持ちを新たに頑張ろうと一歩を踏み出しているだろうとも思う。

あの日見つけた腕時計のように。

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