もののけ姫を観てオタクが感動した部分

コロナで映画館でジブリがやってたころにもののけ姫を観てきました。公開されてから23年も経つのにまた映画館で実寸で観ることができていろいろとクるものがありました。他の方のもののけ姫の考察だとかドキュメンタリーはあえて触れないで観たままの感想を書いていこうかな、と思います。理由はいろいろあるけど一番は映画だけ見て感想を言うのもリスペクトのひとつの形だろうと思うので。合わないな、と思ったらそれはそれで個人で感想や考察を書いたらいいと思います。


まず冒頭のシシガミさまが植物の生えてるところを数歩歩いて、その歩いた部分の植物が朽ちて枯れた土に蛆みたいなにょろにょろが蠢いている。

このワンシーンだけでシシガミさまという存在は自然界の生きる力を殺す能力を持っていてその力は長く尾を引く、というのが図を観るだけでわかる。もののけ姫の持つ畏怖の雰囲気が冒頭で描かれることで「これはこういう映画だからそういう気持ちの準備よろしく」みたいな感じと異世界への引き込み方が森の中に入ったときみたいでたまらないですね。この手法は風の谷のナウシカの冒頭でもやっていて、あちらの方は冒頭から荒れ果てて人の住めない大地を絵とユパ様の踏みしめる大地の「カシャッカシャッ」という私たちの知っている土を踏む音ではない足音で表現しているのでそちらでも感動。


そしてアシタカヒコのいるエミシの村。このあとに出てくるタタラバとの違いに大興奮するのでエミシの村の特徴を書いていきます。
まず村の冒頭。村に災厄が起こる前兆を鳥や獣などの野性動物の動きで判断していて自然と結び付きの強い村だと想像できる。
そして村のトップにいる女性は巫女的な存在のばばさま。

エミシの村に向かって一柱の祟り神がドゥルルルルと走ってきます。村の若者アシタカヒコが村を守るために祟り神を鎮めようと立ち向かいます。ナウシカや千尋とやろうとしたことは同じなので宮崎駿監督の中で主人公像にはどうしようもなく止められない力の流れをどうにかして鎮めようとする姿があるのかもしれません。

アシタカは暴れる祟り神(中身はイノシシ)に対して「さぞかし名のある山の主と見うけたがなぜ。そのようにあらぶるのか?」とまず神さまへの説得から始めます。タタラバだったら「祟り神に手を出すな!呪われるぞ」とか言われても鼻で笑って瞬殺だろうからこの村にとってはたとえ村を襲う存在であっても森の生き物は食べる以外では殺してはいけない存在なのでしょう。そのなかで村の女の子が祟り神に殺されかけたのを守ろうとしてアシタカは祟り神を殺しそのときに右腕に呪いを受け、その呪いが要因となって村を追い出されます。
祟り神に手を出してはいけない理由を現代の感覚で考えて、過去に疫病に侵された山の生き物を殺したときに人間に感染したとか人間を媒介して家畜に伝染して大変なことになったとか、熊を殺してその仲間が匂いをたどって村に下り人々を襲うだとか、そういう災害を「祟り神に手を出すと呪われる」として触らぬようにしてきたのだろうと想定をするとアシタカがいくら善人であろうとも呪いを受けた瞬間から村から追い出さなくてはいけない存在になったのは理解できます。村の娘を助けるためだとしてもアシタカが村に残ることはできないし村を去るアシタカと村の者が接触をすることもできないのはコロナ禍で疫病の伝染力を味わっている現在を生きている人間なら肌で感じていること。エミシの村でアシタカもそうして守られて育てられて元気に生きてこられたのだからアシタカだけが特別にはならない。
タタラバの村人が神が神という名のもとに救わず、人間にみんなのためだと言って社会から捨てられた人たちで構成されていて「人を人として扱う」という現代に近い組織の在り方を持っているのに対してエミシの村は「自然と神様との共存、むしろ自然と神様に我々は生かされている」という昔の自然信仰心に近い在り方を持っています。根本的な「村という組織で人を生き残らせる」システムとしてはエミシの村の方がタタラバより合理的で非人道的なものなんですよ。それは現代でも昔の掟や風習を調べれば思い当たる節があることでこの時点でこの映画は
自然を象徴としてなおかつ他人と密着した人との関わり方>科学を象徴とした無関心な人との関わり方
という精神的ぬくもりの固定概念へのアンチテーゼにもなっているんじゃないだろうか、と思う。

ここまで書いて宮崎駿監督は人間がめちゃめちゃに嫌いなんじゃないかという気すらしてきた。だって普通だったらそのテイで描かないと思うもん。確かにあれよ、いかに人を酷使して扱う人間もスマホの充電が切れそうになったら充電するもんね、人間に対しての方が無機質な存在に対するよりも冷たいんだよね人間は。昔はあたたかいと言っている人たちは、昔の合理的なシステムのもとでたまたまハブれずに生き残れていただけの話だろうと。死人に口無し。伝えるのはいつも生き残った人間だけ。
今(2020年現在)だったら多少はそういった科学と人間の価値観について理解を得うることもあるだろうけど1997年以前の世の中でこの価値観を自覚して映画を作ったという時点でもう相当な先見の明であると思います。

この時代のフィクションの中で描かれる未来像は車が空を飛び高層ビルがいくつも建っていて空を機械がひしめいているような便利な科学で人の社会が豊かになっているいわばドラえもんにおける未来の姿で、たまごっちが愛されてエヴァンゲリオンが公開されて「科学と共に生きていく人の姿が未来像」であって、2020年の描く「自然と人間が共に栄えて暮らしていく未来像」ではないんですよ。
私が過去と現在の未来像の差をを意識したのは昨年「OPEN FUTURE(未来の可能性が広がる場所を目指す)」をテーマにした東京モーターショーに行ってほとんどの企業が想像した未来は「草原」だったり「雲」だったりの自然の中にある文明を軸にして自然と共に生きるためのエコロジーに未来図を描いていたことに驚いたからなんですけれど、この二つの未来像の違いは

タタラバにおける「科学技術の発展と共に作った組織では古い慣習に殺されることはない、弱い人間にも居場所がある」という人間社会から弾かれた人間側からの理想郷



エミシの村における「すべてのものは自然から生まれる。人間は自然に生かされている。大地は種を育て森を育て水を育てる。すべて未来へ還元されていく」という大地に根差した理想郷

の違いそのものかな、と。タタラバを描けるのはわかるけどエミシの村をああやって描けるのはすごい。本当に同じ日本の空気を吸っていたのだろうか。エミシの村って昔の象徴のようであって現代の象徴みたいなものですから。いやあの時代のなかにいてタタラバを描けるのは時代を自覚していなければ不可能だからどっちもすごいや。

で、話を戻して

ここが個人的な宮崎駿監督が憎くて愛しいポイントなんですけれど、アシタカの今後を巫女的な力を司るばばさまが占います。その結果、アシタカの腕にある呪いはアシタカを蝕み殺すものだと告げる。それに対して同席していた村の男たちは「アシタカは村を守り乙女らを守ったのですぞ。ただ死を待つしかないというのは…」とアシタカの無念に対して言葉を紡ぐ。
それに対してばばさまは、運命は誰にも変えられないがただ死を待つか自ら赴くかは決められる。アシタカに呪いを遺した祟り神は西からきたものでそこで大変なことが起こっている、そこでの出来事を曇りなき眼で見定めれば呪いもどうにかなる道が見つかるかもしれない。我が一族が衰えたときに長となるべき若者が西へ旅立つのも定めかもしれない。掟に従い見送らないけど健やかにいてくれ、みたいなことを告げます。アシタカは黙ってそれを聞き入れて村を旅立ちます。
ここで宮崎駿監督が憎くて愛しくてたまらないポイントとして、
ばばさまを中心にその場にいた誰もがアシタカヒコのことを悪くは言っていない、それどころかアシタカヒコは村と乙女を守ったのだからどうにか…一族を担うアシタカを失いたくない、アシタカを失うという一族の悲運を嘆いてすらいる。これがどういうことなのか。

ばばさまも後に出てくるジコ坊もモロも語るこの世界の摂理がある。それは傷を負ったものがその傷に蝕まれてしまったらタタリガミになる、ということだ。

つまりあの場に同席していた人たちもばばさまもみんな、傷を負い村を追い出されたアシタカがタタリガミとなって村を襲うことが怖かっただけなのだ。その弱さが意識的か無意識かはわからないが、アシタカが死の呪いを受けた理由が人として真っ当なものであればあるほどにタタリガミとなるには充分で、村の人たちはそれが怖くてああいった追い出し方をしたのだろうと思う。前述したように村の掟は村を守るシステムで、アシタカもそのシステムに守られて育てられたのだからそれを拒否することはできない。性格的にも拒否なんてしないだろう。
作品を語る上で『普通なら』という表現が正しいのかはわからないがあえて使う。普通なら一族の有望な若者であっても呪いを受けたのだから村人たちから腕の痣を忌み嫌われ、化け物となってしまった扱いを受ける描写があって、そこから村を出ていく流れであってもおかしくはない。だが宮崎駿監督は違うのだ。アシタカを悪く言う人間はいない、そこが憎くて愛しくてたまらなかった。

(続くかも)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?