10年経ってようやく飲み込めた言葉

15歳、中学3年生のときクラスメイトに

「根拠のない自信を持つことが大事だよ」

と言われたことがある。

彼女が輝いていた理由が今になってようやく分かったし、20代半ばになった今も自分は根拠のない自信を持てずに苦しんでいる。


私は当時中高一貫の女子校に通っていて、
学年のおおよそ3分の1は帰国子女の子が占めていた。

小学校卒業まで、周りに同調することが第一と教えられてきた自分は
いつもクラスで目立つ華やかな子たちが唱える意見にうんうんと頷くだけだった。
教師の言う「意見はないのか」に対して、
頷かないということは反対意見だということを汲みとってくれと願いながら、いつも逆らうことができずに流されるような子供だったと思う。

中学校に入学しても同じことが続き、
集団の中にボスらしき人を見つけてはその子の顔色を遠くから伺っていたし、変なことをして目をつけられないかと考えおどおどしていた。
当時身長が145cmしかなかった自分よりひとまわりもふたまわりも大きい同級生。よりにもよって帰国子女の子たちがわんさかいる部活に入った。そんな子達が堂々と自己主張をする。
ただただ萎縮してしまっていた。

3年生になったころ身長はうんと伸びており同級生と肩を並べるくらいになった。
その年初めて部活以外で帰国子女の友だちが出来た。
15歳の割には垢抜けていたしキラキラした笑顔が眩しい子だった印象がある。
自分とは正反対に見えた。なぜ地味だった私と一緒に居てくれたのかなと思うくらいだった。

その子がある日私に
「根拠のない自信を持つことが大事だよ」
と言った。

その時私は、そんなのは自分には無理だと思った。
あなたは素敵だから自信を持てるんでしょ、と苛立ちすらした気がする。

私が「期待に応えられない(応えなきゃ)」というような事を言ったときには
「私は期待なんかされてない」と言われた。
そんなの嘘でしょ、これだけ多彩なんだから期待されているに決まってる、と思った。


高校に入る頃、身長は160cmに到達しようとしていた。
あれだけ大きく見えていた部活の友達も横に並ぶと同じくらいの目線になっていた。それがすごく不思議だった。
意外と、そんなに変わらないのか、と。

その年の夏に部活を辞めた。
挑戦するのが怖かった。「自信のない自分」の姿に囚われすぎていた。 

なぜあれほど主役ばかりを羨んだのだろうと気づいたのは1年以上先のことだった。
すでに身長の伸びは止まっていた。
高校最後の身体測定で、目に見えてわかる成長の証はもうそれほどないんだろうな、とぼんやり思った。


それから5年以上の時が流れた。
沢山失敗を繰り返してふと、10年前に帰国子女の友達に言われたその言葉を思い出したのだ。

きっと才能があるから堂々としているわけではなかったのだろう。可愛いから笑顔がキラキラしていたわけでも、美人だから目力が強かったわけでも。わたしが主張することを悪く思っていたわけでもなかったんだろうなと思った。


意見があるから言いたいし、
生きているからためらわず自分を表現したい。

26歳になってもまだ自分にはそれが難しく、上手く出来なくて苦しいことが沢山ある。
でも、あの頃よりは少しずつ出来るようになってきた気がしている。

また成長したね、と言われたときはいつもピンとこなくてあれ?そうかな?身長だけね!と言っていたけれど、

今は、まあこれだけ努力したからね、と胸を張って言えるようでありたいと思っている。

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