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気まぐれ日記 24.06.09。風に吹かれて、しんどいけど、飄々と。

妻が5年日記をつけているので、「去年はこんなことしてたって」と話してくれる。どうやら、去年の今ごろは妊婦健診に行っていたらしい。あのときエコー写真でしか会えなかった子は、元気につかまり立ちをしている。もう生後7ヶ月。もうちょっとで8ヶ月。つまりは1歳がすぐそこ。なんとなんと。

思えば、佐久の春〜夏も2回目。水が張られた田んぼに感動したり、稲の伸びるスピードに驚いたり。去年も同じことを感じた記憶はあるけれど、新鮮に出会いなおすことができた。最近は、一面の稲たちが風にたなびく様子をボーッと見ていることが多い。こないだはひとりで散歩していて、田んぼをじーっと眺める怪しい人になっていた。風っていいよね。

流れる水も好き。用水路の水をじーっと眺めてもいる。怪しい人が再登場することが多い。きっと同じ理由で、流れる雲も好き。空が好きというより、雲が好きなのかも。

最近は、夕方にお子を抱っこして、ふたりでお散歩に出かけている。仕事帰りの17時頃。涼しくて、風が吹いていて、空の色が少しだけ赤みを帯びてきて。流れる水の音を聞き、揺れる稲を眺め、風に吹かれ、浅間山に圧倒される。「気持ちいいねぇ」とお子に話しかけながら、田んぼの畦道を歩く夕方。泣きそうになる。涙ぐんで歩いていることもある。怪しすぎる。

散歩の途中、借りている畑にも寄るようにしている。2年目の畑。去年は大豆しか育てられなかったけど、今年はじゃがいもがいい感じに大きくなっていて。出会うミミズの数が明らかに多くなった。自分たちで育てたじゃがいもで、お子の離乳食をつくれたらいいなぁ。すっかすかで美味しくなかったら、僕たちで食べるけれど。お子には食べることを好きになってほしいので。

お子と一緒に畑に行くと、興味津々で草たちに手を伸ばす。もうすべてが気になるようで、にっこにこ。草を引きちぎっては食べようとするので、まったく油断できないものの、お子が世界に触れている様子はこちらも楽しくなるから好き。お子を通して、僕たちもいろいろと感じていくんだろうな。

こないだ、散歩の帰りに近所のおじいちゃんに遭遇した。何度もお話しているので、お子にも挨拶してくれる。「泣かないでよ〜」とお子に言いながら、並んで歩く。「畑寄ってく?」と言われ、おじいちゃんの畑にお邪魔することに。もうちょっとで食べごろになりそうなキュウリ・トマト・ズッキーニなどを見せてもらいながら、「いつでも勝手に採ってっていいよ」とのこと。後日、ありがたくキュウリをいただいた。洗って味噌をつけて、そのまま。とんでもなく美味しかった。

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豊かな生活をしている自信がある。けれど、心は曇っていることが多い。この生活は、仕事の時間を犠牲にしているからだろうか。お子が生まれた昨年の10月から、仕事量をかなり抑えている。妻とお子と過ごす時間をなによりも大切にしたくての選択で、なにひとつの後悔もない。いろいろなはじめてを3人で過ごせていることは、なににも代えられない。

とはいえ、仕事を抑えているということはお金が入ってこないということで。織り込み済みとはいえ、金銭的な不安は大きくなっていく。そして、もともと不器用にしか働けないタイプな僕。様子を見ながら少しずつ仕事量を増やしていこうかな…とは思いながらも、僕に合った“働く”がまったくもってわからない。

コワーキングスペースでのお仕事は心地よいし、起業した友達のお手伝い(事務作業のバイト。本当にありがたい)もしているけれど、僕のまんなかに繋がるような仕事をしたい想いもある。一方で、そんな仕事があったとしても、現状だと中途半端にやってしまうのでは…と躊躇する自分もいる。具体の選択肢はまったくないのにねぇ。躊躇の前借り。利子が増えていくだけなんやけど。

個人の活動「とろ火」もゆったりと続けている。4月からは間借りで図書室もやらせてもらい、5月はイベント出店で本を売ってみた。読書会も継続しているし、取材記事を書こうとインタビューもした。音声配信だって、ちまちまと続けている。

楽しいし、間違いなく僕のまんなかにある活動。でも、この活動をどうしていきたいのかが見えていないのが正直なところ。勢いではじめた活動だからこそ、気まぐれで消え得る。そんな可能性に自分が気づいているからこそ、とろ火が僕にとってどういう意味を持つのかを考えないといけない、と思っている。

…みたいなタイミングで、こないだ佐久の仲間から『たやさない つづけつづけるためのマガジン』という本をプレゼントされた。僕のなかにあるなにかが試されているのかもしれないなぁ。

それは、僕が、というよりも、僕たち家族はどう生きていきたいのだろう、という問いでしかなくて。ふたりでたくさん話してきているし、パズルのピースはたくさんある。でも、それぞれのカケラを手にとって、「これどこにはめるんや??」とふたりで首をひねっている感じが続いている。

焦るもんでもないし、子育てしながらよくやってるよ、とも思う。それと同じくらい、いやぁこれからどうするんやろう、とも思っている。まぁ、生きていく道がはっきり見えたことなんて今までなかったから、もがいていく過程からなにかが浮かび上がるんでしょうけど。しんどいものはしんどい。

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近頃、「かっこつけない」を頑張りたいと考えている。僕は気を抜くと、すぐにそれっぽい言葉を使おうとする節がある。BLEACHの愛染大先生が「あまり強い言葉を遣うなよ…弱く見えるぞ」と言っているけど、強い言葉で守っていない自分が頼りないから、ついつい武装してしまう。

編集/ライターの仕事をしてきているし、「あくつさんって慎重に言葉を使いますよね」と言ってもらったことも多い。でも、言葉と向き合えていないことなんて、自分が一番知っている。そして、そこにある種の引け目も抱いている。その自覚もある。とってもある。だから、より一層強い言葉を使ってしまう。

言葉を題材にしたけど、あらゆる場面で似たことが起きている。そのままでいるのが怖いから、かっこつけてしまう。傷つかないための予防線。なのに、着飾っていない自分を外でもない僕が見逃してくれない。かっこつければつけるほど、しんどくなる。「あーあ、またやってるよ」という声が聞こえてくる。張った予防線に傷つけられる日々。

こないだ、この話をとろ火のHPに書いた。

力まない自分で日常を過ごし、しんどさを真っ直ぐに見据えて、ちゃんと悔しがっていきたいな。

この文章を書いてから、至らない自分と出会いまくる荒療治が必要なのかもなぁ…と思っている。やってみたいと長年妄想しながら、それができない自分を知りたくなくて逃げている諸々が頭に浮かぶ。

「別にそんなにやりたいと思ってなかったよ?」と斜に構えてしまうのではなく、「やりたいことやってみたら、全然できなかった!悔しい!」となりたい。

だいぶ前から、ひねくれなが生きていきたいと言っている。でも、斜に構えるのとひねくれるは、違うのかもしれない。自分の想いを誤魔化して逃げるのは、ひねくれでもなんでもないでしょう。きっと。サンボマスターの「できっこないをやらなくちゃ」を聴いていこう。ひねくれながら真っ直ぐ生きていきたい。何年も言っていることやなぁ。戻ってくるんやなぁ。

最近は、飄々としたい、という別の言い回しもよくしている。イメージしているのはスナフキン。ヤツは、だいぶ軽やかにひねくれている。失敗している姿はあまり見ない気はするけども。

そんなわけで、頭にあるやってみたいことをやっていこう。どう思われるんやろう…とかが浮かんでかっこつけようとしちゃうけど、修行ということで。少しずつ試して、失敗していきたいな。

衝動的につらつら書くのは楽しいですねぇ。

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