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世界は分からない…のが良い 〜“生活者の探究”の探究 Vol.2〜

探究学習や、ビジネス文脈での探究は、非認知能力の向上であったり、イノベーションを生むためだったりすることが多い。

でも、友達とゆるゆるした探究をはじめてみて思うのは、探究それ自体が目的になり得るんじゃないか、ということ。

単純に楽しいから…だけでもいいけど、なんだかもう少し大きなものを感じている(気がする)ので、書きながら考えてみる。

※僕が“探究“と連呼しているときに考えているのは、勝手に掲げている“生活者の探究”のことがほとんどです。

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探究のなかで考えたり調べたり対話したりしていると、1個の「分かった気がする!」に対して、新しい10個の「分からねぇ!」が発生する。

考えて調べて話して。単純計算、それをすればするほど、世界は「分からねぇ!」であふれかえっていく。

でも、なんだかそれが心地いい。

分からんことばっかりなのに、なんでなんだろうなぁ…と考えていたとき、ふと池田晶子の『14歳からの哲学』を思い出した。

ちょっと長いけど、引用してみる。

「考える」とは、まさにその自分の人生、その謎を考えることにほかならないからだ。君は、自分が生きて死ぬということがどういうことなのか、さっぱりわからないということが、はっきりわかるだろうか。

わからないとわかるからこそ、考えるんだ。そうじゃないか。考えたってわからないと考えないのは、わかっていないということをわかっていないからでしかない。そうじゃないか。わからないとわかっていることを考えるのだから、それは答えを求めて考えることじゃない。

考えるということは、答えを求めるということじゃないんだ。考えるということは、答えがないということを知って、人が問いそのものと化すということなんだ。

謎が存在するからだ。謎が謎として存在するから、人は考える。考え続けることになるんだ。だって、謎に答えがあったら、それは謎ではないじゃないか。

謎とは、自分の人生、この生き死にに、この自分に他ならないのだったね。さっぱりわからないものを生きて死ぬということが、はっきりわかっているということは、自覚すること、人生の覚悟だ。だから、とても力強くいきて死ぬことができるんだ。

池田晶子『14歳からの哲学』

1年前くらいに読んだときは、「なんだかすごいものを読んでるぞ…」と思い、ぐるぐるしながらメモしただけだったけど、今読み返すと違う見え方をしてくる。

もちろん同じものを見れているとは1ミリも思っていないけど、「分からねぇ!」が世界に増えることの心地よさが、少し分かった気がした。

いくら技術や人文科学が発展しても、圧倒的に「分かんねぇ!」ままなのが、この世の中だと思う。

とにもかくにも、人間はちっぽけでしかないし、この世界は途方もない。

それは、人間の限界とも言える。でも、それを知るということは、永遠の可能性とも言える。

この神秘さにワクワクする感覚は、僕だけじゃないと思う。

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もう少し、「世界は分からない」から感じるものを考えてみる。

これまた、ふと思い出したのは、そもそも「分かる」という営みについて。

「分かる」は“分”という漢字を使うように、世界を分節する営みだと問いている人がいる。

分割は知性の性格である。まず主と客とをわける。われと人、自分と世界、心と物、天と地、陰と陽、など、すべて分けることが知性である。主客の分別をつけないと、知識が成立せぬ。知るものと知られるもの——この二元性からわれらの知識が出てきて、それから次ヘ次へと発展してゆく。

鈴木大拙『東洋的な見方』
ちなみに、本書は読んでおらず、下記の記事で知りました。
https://www.engakuji.or.jp/blog/30591/

「あなた」を分かるということは、「わたし」と「あなた」は違う存在だということ。その前提が、確実にある。輪郭が曖昧なままだと、その存在を理解することはできないはずだ。

(と、書きながらも、この部分はあまりしっくりきていないので、もう少し考えたいところですが…)

ということは、この世の中を「分かろう」とする営みは、自分と世界を断絶する行為とも言えてしまうのではないか。

でも、その営みは失敗にしか終わらない。だって、世界は途方もない。いくら分かろうとして、「分かった気がする!」が増えても「分からねぇ!」がそれ以上に増えていく。

探究して、世界に「分からねぇ!」が増え、それでも「分かろう」とするとき、むしろ世界とは近づいているのかもしれない。

逆説的…!

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加えて調べていたら、「自然との一体感=Nature-Connectedness が増すと、幸福度が上がる」という研究結果がある、ということを知った。
(参照:「自然との一体感」と「幸せ」

元の論文をまだ読めていないので、妥当性やらなんやらはわかってないけれど…

でも、その感覚は経験したことがある。僕は長野県佐久市に住んでいるので、近所を散歩していると浅間山が見える。その雄大さを感じると、自然にため息が出て、なんだか肩の力が抜ける感覚がある。自分が雄大な景色に埋没していく感覚、とも言えるかもしれない。

それって、ある種の幸福なのでは?

冬の浅間山

参照記事では「自然」と言っているけど、それは「世界」と言い換えても同じだと思う。

World-Connectedness…と言うと怪しさしかないけど、「世界との一体感」も、なにか大切な感覚をもたらしてくれる気がする。

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生活者の探究は、日常の引っかかりを糸口にする。日常って、その人の世界に最も近いはず。だから、根源的に「世界を分かろうとする営み」だと言えるのではないか。

だったら、生活者の探究をすることで、こんな流れが生まれているんじゃ…?

「世界を分かろうとする営み=生活者の探究」をする
 ↓
1個の「分かった気がする」と10個の「分からねぇ!」が生まれる
 ↓
それでも、世界を分かろうとする
 ↓
次第に、世界は「分からなさ」であふれかえる
 ↓
世界が「分からない」ということは、世界と断絶されていないということ
 ↓
世界との一体感が増す
 ↓
安心感のようなものを感じる
(↓
あふれかえった「分からねぇ!」の探究は永遠に続く…)

もちろん、この流れは、論理的に飛んでいたり、浅い議論しかできていなかったりで、ツッコミどころはたくさんあると思うけど。

付け焼き刃の知識をつなぎ合わせたら、生活者の探究がもたらすものの、輪郭が分かった気がする。

でも、それは10個の「分からねぇ!」の発生ということでもあり…。

そもそも、「世界を分かろうとする営み」って理解で良いのか? とか。
「世界との一体感」って、結局なに? とか。

こうやって、“生活者の探究”の探究が続いていくんやなぁ。それがなんだか楽しいのです。そしてやっぱり、この世の中はよく分からん。

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