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寂しさを抱えて生きるということ。

10歳くらいのときだったと思う。学校も終わって、家に帰り、夕日が差し込むなか何気なくテレビをみていた。夕日が眩しいな、くらいしか考えていなかったのだが、ふと「人はいつか死ぬ」という事実が頭に浮かんだ。

「え、僕もお母さんもお父さんもお兄ちゃんも、いつか死ぬの?」

急に怖くなった。台所で夕ご飯の準備をしている母の元に、泣きながら駆けつけ、「人って死んだらどうなるの?なにもなくなっちゃうの?」と聞いた。

母がどのように返してくれたかは覚えていないのだが、「怖い」という感覚は記憶にべったりと張り付いている。


この「怖い」が、僕のなかで広がってきている。

宇宙の果てのその先を考えたときもそう。生命の起源を考えたときもそう。僕は、怖くなってしまう。

なんで怖いんだろう。

ずっと不思議だったのだけれど、ようやく輪郭が掴めてきた。「自分の存在には意味がない」という事実に耐えられないのだ。

生まれたからには、なにか意味のあることを成し遂げたい、といった類の想いじゃない。ただ僕の存在というものが、偶発性の産物でしかないという事実が怖い。

「この地球」で「この国」で「この場所」で「この僕」が生まれた。世界のなかで、唯一の存在。それを支えるものが、偶発性でしかないという事実。

一人ひとりがかけがえのない命なのに、と綺麗事を言いたいわけでもない。世界は美しいと思っているけれど、人生は美しいとは思っていない。誰にだって消し去りたい過去はある。それもひっくるめて、美しいというのは暴力だろう。

命の重みなどは横においた上で、この「生きる」という営みに、全く意味がないということが怖いのだ。


そんなことを思っているとき、岸政彦さんの『断片的なものの社会学』を読んだ。

僕はこの本を読んで、人生に意味付けをせず生きていきたい、と思った。

生きる意味を求める。それは、「生きる意味があるから生きていく」という考えに用意に帰結してしまう。その先では、「意味がない」ものを退けてしまう。

生きる意味を見出す。僕は、その行為を人間的なものだと思っていたけれど、いつのまにか「無意味を切り捨てる」という非人間的な行為へと裏返る可能性がある。

本書で描かれているのは、断片だ。意味を見出すことができず、宙に浮いている出来事。誰かに語ることもできず、記すこともない。けれど、たしかにそこにあった出来事。そんな無意味さが描かれている。

そして思う。無意味だとしても、そこに在ったという事実は消しされないということを。

これは、無意味さを尊重するという態度ではない。僕もあなたも、ただここに在るだけ、という事実に打ちひしがれるという態度だ。


意味を求めるのが、人間の特徴だと聞いたことがある。意味の追求は合理性を生む。だからこそ、人間社会はここまで発展したのだ。

けれど、人間は合理的なだけの生き物なのだろうか。

僕は、そう思わない。もしかしたら人間は、無意味さに耐えられる生き物なのではないか。

多くの生物は、本能的に「生殖」を生きる意味として生きている。けれど、人間はそうではない。生殖以上もしくは以下のものを、生きていく意味として見出そうとしている。

そのうえで、生きる意味なんてないことも知っている。でも、生きていく。

僕は生きる意味を求めることこそが人間らしさだと思っていた。

けれど、「生きる意味がなくても生きていく」という態度は、なによりも人間らしい。

存在の無意味さを自覚するのは、怖いことだ。寂しいと言ってもいい。

その怖さ、寂しさを抱え続けることこそが、生きるということなのかもしれない。

「ただここに在るだけ」という事実に打ちひしがれる。その先でようやく、僕はあの夕暮れを涙なしで過ごせるのだろう。

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