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からっぽ。

「人生や生きることを、よく考えるんです」

いろんな場所で、そう言ってきた。実際、よく悩んでいた。どう生きたらいいのか、なんで生きるのか、この生はいつまで続くのか。自分は、どこまでが自分なのか。

でも、本当に考えているのだろうか。僕は、ただただ「楽になりたい」だけなのではないか。「考えている振り」をしているだけなのではないか。

強烈な世界観を持つ人を見ると、ドス黒いものが心の内側に浮かんでくる。美しい絵を描く人、精緻なものを創る人、綺麗なことばを紡ぐ人。ジャンルを問わず、表現したいものを持つ人を見ると、自分がいかに“からっぽ”なのかを痛感させられる。

僕には、ほんのわずかな質量しかない。

“からっぽ”に気付いたのはいつだったのだろう。小学6年生のとき、上橋菜穂子が創り出す濃密な世界観に、迷い込んでからだろうか。中学3年生のとき、恩田陸というストーリーテラーの多種多様な作品を、片っ端から読み漁った頃だろうか。

どれだけ探しても、僕のなかには何もなかった。憤り、歓び、悲しみ、虚しさ。どの心も、質感を持たずにふっと消えてゆく。掴みたくても掴めない。

悩むようになったのは、きっとその空虚さをごまかしたかったからだ。悩んでいるうちは、僕の軽さを忘れられる。ここじゃないどこかを夢想して、時が過ぎるのを待つことができる。

けれど、どれだけ悩んでも、僕はからっぽのままだった。どれだけ悩んでも、僕のなかには何も生まれなかった。

ことばを紡ごうとしても、目の前には空白が広がる。ことばを紡ぐ仕事をしているが、それは他人からのことばを借りて、なんとか書いているに過ぎない。僕は、僕のことばを紡いではいない。

それって、僕が僕でいる意味があるのだろうかと思う。僕がからっぽならば、僕である必要がない。だってそうだろう。何もないのだから。

からっぽを受け入れられたら楽なのだけれど、どうしても僕が僕である意味を追い求めてしまう。いや、意味がない自分に耐えられないんだ。

きっと、悩んでいてはだめなんだろう。考えないとだめなんだろう。僕は、ずっと悩んできた。けれど、それは自分の頭で考えていたわけではない。自分の足で歩いていないのだから、僕の足跡が残っているわけがない。その軌跡に“僕”を探すのが間違っている。

考えろ。からっぽを乗り越えるために、考えるんだ。

過ぎゆく日々を、この眼で、この耳で、この肌で強烈に残せ。その先で、僕のなかに何かが生まれるはずだから。

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