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迷いと熱

いろいろと「やってみる」を重ねている今日このごろ。それ自体は自分でも褒めてあげたいくらいだけれど、中途半端さに嫌気が差すことも多い。足取り軽くやってみることは良い。でも、「やってみる」は手段でしかないはずで。じゃあ、その先にある目的を見据えられているのか、というと全くそんなことはなく。

このあいだ、友人に「やってみるって怖い」という話を聞いてもらった。うまく言葉にできなかったのだけれど、もし言い直せるとしたら「本気になるって怖い」こそが、いまの僕が感じていることなのかもしれない。

「本気になる」と書くと、なにかひとつに全力を投げうつみたいな気がするけれど、きっとそれだけではなく。「やってみる」と同じよう、「本気になる」も手段でしかないから。その目的は、生きのびるだけでなく、生きること。無意識的にでも、意識的にでも。

生きようとするのは、怖い。想いを投影すればするほど、傷つく可能性が増えていく。自分を投げ込めば投げ込むほど、大切なところが損なわれる可能性が増えていく。そこで生まれ得る傷は、致命傷にもなり得る。僕は、それに怯えている。

そんな怯えをかき消すほどの熱意があれば、茨の道も邁進できるんだろう。でも、そんな熱意があったのなら、はなから怯えてはいない。にわとりたまご、ではあるけれど。

生きるに対して、痛みさえ感じないくらい盲目的になりたい。そう思い続けている。誰かのそんな姿に惹かれるのも事実。もちろん存在する苦悩を抱えながら、ひたすらに足を前に進める姿には、大げさではなくうっとりしてしまう。浮かされるような熱を、欲してしまう。

昨年から、「迷う」を大切な指針に掲げている。この「迷う」と「熱」が、自分のなかで同居できていない感覚がある。ひたすらに邁進する姿には、迷いはない。いい意味での盲目的になりたい、と強く思っているのに、迷いを抱えていたくもある。

生きるに対して怯えているのは、迷っていることでもあって。でも、迷いが中途半端さを生んでいるのなら、それは僕の求める迷いではなくて。

きっと、冷めた迷いと、熱を帯びた迷いがある。その正体はうまく掴めていないけれど、僕が欲しているのは後者なんだろう。熱を持ちながらも、盲目的にはならず、移ろいながらも、生きるを邁進する。禅問答のような気もするし、案外シンプルな道な気もする。

熱を帯びた迷い。書きながらふっと出てきたこの言葉を、眺めてみることからはじめよう。

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