どうせ苦しいんだから、その苦しみくらいは選び取ればいい
ままならない日々を過ごしている。過ごしているというより、日々が過ぎ去っていく。身体は少しずつ動くようになってきたけれど、心はまだあまり反応しない。
いや、反応するものはあるんだけれど、その反応を押し殺しているといった感覚。心の機微に正直になったら…と思う自分もいれば、方角の違う一歩を踏み出すことが怖い自分もいる。後者の自分が圧倒的に大きい。
ありもしない現実に縛られているのは、間違いのない事実で。そこから抜け出したいとは思うのだけれど。
抜け出すための試行錯誤の道へと、心は反応する。なのに、それを「でもなぁ」と蓋をしてしまう。
なぜなんだろう。
考えてみると、「ままならない自分が悪いんだ」と思ってしまっている節はある気がする。文句を言いながら、自分を嘆きながら、現実に即した形へと自己を矯正する方が楽だし、道筋も分かりやすい。だから、抵抗を止めようとしてしまう。溺れたくないのなら、流れに逆らわない方がいい。大きな奔流に身を任せて、運んでくれるところへと向かう。
でも、抵抗しようとした途端に分からなくなってしまう。どうしたらいいんだろう。このまま溺れ死んでしまうのではないか。怖い。やめとけばよかった。やっぱり、流れに乗れない自分が悪いんだ。身を任せた方がいいんだ。
そして、楽な場所に戻ってくる。絶望だけが深くなって。
だったら、“楽”を捨てるしかないよなぁ。
「ままならない自分のまま生きていく」って、かなり大変なんだろうな、と最近思うようになった。「自分らしく生きる」みたいな、耳障りの良い言葉はたくさんあるけれど、それはきっと茨の道で。なんの苦痛もない天国では、決してないのだと思う。
よくよく考えたら、それは当たり前で。そんな簡単に辿り着けるのなら、こんなに苦しむ必要はないはずで。
現在地に居続けるのは苦しいけれど、抜け出すのも苦しい。
でも、前者の苦しみは永遠な気がして。後者の苦しみには変化があって。
でも、前者の苦しみには楽さがあって。後者の苦しみには不確実性があって。
一切皆苦と言うけれど、よくできた言葉だなぁと思う。
どっちの苦しみを選ぶのか。そんな話なのかもしれない。
苦しみから逃れようとするから、どこにも動けなくて、結局は苦しみを味わい続ける。イソップ童話かよ。
でも、どうせ苦しむんだったら、望んで選び取った苦しみがいいな。
下手に希望を抱かずに、苦しみもがけばいいのかもしれない。
ネガティブかもしれないけれど、僕にはこれくらいがちょうどいい。
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