マジョリティ性を自覚するとしんどくなるけれど、見ない振りは違うと思った。

なにか結論が出ているわけじゃない。それでも、葛藤をことばに残したくなった。

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僕は日本人であり、日本で暮らしている。僕の生態学的性別と性自認は“男”で一致している。恋愛感情を抱く相手は“女性”だ。小中高大と特に目立った苦しみはなかった。障害は有していない……etc

世の中のことを知れば知るほど、自分のことを振り返れば振り返るほど、自らの“マジョリティ性”を実感する。

マジョリティ性。社会の大多数に属しているということ。つまり、環境や生まれ持ったものに起因する壁は、比較的低いということ。

社会における“当たり前”を作ってきた側に、僕は身を置いている。“当たり前”に埋没できる立場。

それはきっと、生きづらさとは縁遠いはずだ。

けれど、僕はずっと生きづらさを感じてきた。

なんで、いつか死ぬのに生きているんだろう。
なんで、なんの意味もないのに生きているんだろう。
なんで、みんな平気な振りをして過ごせているんだろう。

ずっと居心地が悪い。そんな日々を過ごしている。

そして、思う。

恵まれてきたのに生きづらいと言っているのは、甘えなんじゃないかと。

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26歳にもなると、学生時代よりも視野が広がってくる。それは、幸せを感受する機会が増えたと同時に、困難にぶつかっている人を知る機会が増えたことでもあった。

こんな幸せに生きている人もいるんだ!
こんな困難を持って生きている人もいるのか……

前者だけに目を向ければよいのだが、僕は後者に引きずられてしまう。そして、自分のマジョリティ性を強く実感するのだ。

その実感は、いま僕が感じている生きづらさを矮小化してしまう。

もちろん、その人が感じる生きづらさは、その人だけのものだ。そこに大小の比較はないし、否定されるべきものでもない。

けれど、「自分の生きづらさなんて……」と思ってしまう僕もいる。

そんな自分から目を背けたい。自らの生きづらさだけを相手にしていたら、自分の感情を否定しなくて済む。そっと見ない振りをしてきた僕は、確実に存在している。

それでも。

自分のマジョリティ性から目を背け続けるのは違うと思うんだ。

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「生きづらいと感じている人のために行動したい」なんて、そんな傲慢なことは1ミリたりとも考えていない。僕は僕を救うことで精一杯だ。

けれど、自分のマジョリティ性を見ない振りすることには、どこか座りの悪さを覚えてしまう。

じゃあ、どうするのか。

全くもって考えられていない。なにをしたら傲慢さにあぐらをかくことなく、この座りの悪さを解消できるのかなんて、皆目検討もついていない。

簡単に答えが見つかるとも思っていない。

きっと、考え続けるしかないんだと思う。

マジョリティ性を自覚した自分は、目を背けてきたことに気付いた自分は、なにができるのかを。

うーん。難しい。

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