見出し画像

妄想爺のとんでも史観 (23) 穢れ

妄想爺のとんでも史観 (23)

 穢れ

 知らない人の握ったおにぎりが食べられない。エレベーターや駅とか商業施設の、トイレのドアノブが触れない。
 これを潔癖症と言うのでしょうか?
 信頼している人が握ったおにぎりは食べられる。家族と一緒に使う自宅のトイレのドアノブは平気だ。
 何が違うのでしょうか?着いているかもしれない得体のしれない何かの量なのでしょうか?
 個人の主観、物差しの違いでしょうか?

 神社に参拝する時、拝殿へ行く前に手水舎で手や口を清めます。穢れを落とす みそぎ の名残だとも言われています。
 禊、みそぎ、、、、身を削ぐ、身をすすぐ、身をそそぐ、、、身滌・身濯 が語源だとか。
 神聖なる場所の神社(神のおわしますやしろ)へ行く時は、清潔にしましょう。これも一理あります。
 伊弉冉尊を連れ戻そうとした伊弉諾尊がそれが叶わず、黄泉国の穢れを落とすために「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原(檍原)」で禊を行なったのが始まりとか。
 死者との別れの後の儀式。聖なる場所への訪問の前の儀礼。大事を行う前の精神統一。大失敗を償った後の許し。聖人たちの修行荒行の一つ。
 色んな禊がありますね。
 穢れが着いたから、、、穢れを祓う為、、、穢れが無いよと主張したい為、、、人それぞれと言えます。

 穢れは汚れとは違いますが、見る人によっては汚れが穢れだと言います。
 あの子の触ったものが嫌。それも人によってイジメに良くあるセリフです。
 昔、とは言っても貴族と呼ばれる人々が現れ始めた頃ですので、平安時代だと思います。
 この頃の穢れとは、「死人」を扱う職業の人や動物の肉や皮を扱う人々がその対象だったと聞きました。後に武士と呼ばれたもののふの人。死んだ人を直接扱う人々。鹿や猪、熊、狸を捕まえ肉と皮に分け、皮をなめ して製品に加工する人。

あれっ、、、貴族と呼ばれた一族に追いやられた先達の人達じゃね?

 例えば、東北の阿弖流為(アテルイ)。蝦夷の族長と呼ばれたリーダー。
 蝦夷、エビス、夷、元々は出雲一族。もしかすると故郷を追われ東北へと逃れた人たちの末裔。
 そのアテルイ、坂上田村麻呂と共に京の都に赴き、処刑されています。時の権力者にとことん嫌われていた様です。
 飛鳥時代に、越の国や出雲の直系として大王として、物部氏の母や妻と連携し各地に”屯倉”を整備していったあの一族。我蘇われよみがえ り、蘇我氏と同族。
 その蘇我氏を一番嫌った貴族と呼ばれた一族、藤原氏。元中臣氏、その前は、百済王子扶余豊璋。
 蘇我入鹿を、皇極天皇の面前で暗殺した中臣鎌足は百済王子扶余豊璋。この事件を乙巳の変と言いました。
 その事件で蘇我氏の専横は止んだと思われていますが、奈良時代の終焉まで中大兄皇子ら百済王家連合、天武天皇ら出雲物部系との2大勢力の血で血で争う駆け引きは続いたと思います。
 ちなみに、天智天皇や天武天皇と言う呼ばれ方や、天皇と言う役割はこの頃はまだ、確立していなかったと思いますが。
 平安京へ都へ移して、漸く藤原氏政権(?)を確固たるものにしようとした矢先に現れた、この国を作り給うた神の正当な末裔、阿弖流為(アテルイ)が平安京へ来たのです。
 孝徳天皇の河内平野開拓事業を頓挫させ、平城京を藤原氏の睨みの効く都城にしたら東大寺を立てられてその都を捨て、長岡京を作ろうとするも上手く行かず、百済系住民の多い近江に近い、秦氏のお膝元に、平安京をやっとの思いで完成させ、邪魔者は平城京へ置き去りにして、盤石な体制を作ったかと思った矢先に、正当な一族のリーダーがやって来たのです。
 藤原氏が嫌いでも、限られた体制の中で従来の一族を守ろうとした官僚なり人民は、歓迎しますよね。神と崇めている方の末裔が平安京に来たのです。熱狂したのではないでしょうか。
 面白くない藤原氏は、阿弖流為(アテルイ)を惨殺します。もちろん一人では無いでしょう。平安京に来ていた郎党全てだと思います。国元へは別な何かの理由(罪状)を伝えたと思います。

 平安貴族が忌み嫌うもの。鬼の系譜の正当な一族。神と鬼の両面を持つ出雲、越の国一族。荒魂を司る物部一族。
 藤原氏とそれを取り巻く一派以外は、、、、穢れている。そう言う穢れの分野を担う者たちは、穢れている。と言いふらして納得していたのでしょう。
 武士が台頭してくる時代は遅かれ早かれやって来ます。
 武士たち、もののふ達は「自分たちは穢れてはいない。もっと穢れている者たちがいる。」
 裏切りの一族。悪魔の一族。

 自己正当化合戦みたい。

ではまた、お会いしましょう。
ごきげんよう。
やまとやじろべえでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?