見出し画像

響子と咲奈とおじさんと(26)


  条件闘争

晋平が自宅に帰った時、部屋はあの日のままだった。
台所には、二人が食事したらしい昼食の食器がシンクの桶の水に浸かったまま。ベランダに干した洗濯物は干したまま。
暫くの間、妹が来てくれて、片付けてくれた。
その間、晋平は何も出来なかった。食事を取る気力も無く、水も飲もうとしない為、歩こうとしても直ぐ倒れそうになる。
妹がお粥を作ってくれた。妹に「食べなきゃダメでしょっ!」と叱られながら、久しぶりに食事をしたが、食べてる途中から、涙が止まらなくなった。お粥の中に涙が落ちる。
「あ~、、塩けが足りなかったのか、、、だから、涙が、、、」と訳の分からない事を話したらしい。
妹が帰って行った。
代わりに、事務所の南条さんが来てくれるようになった。山形所長も時々来てくれた。
ほぼ一ヵ月、魂の抜けた様な晋平は、みんなの支えで生きながらえていた。

1ヶ月過ぎた頃、晋平の携帯に着信が着始めた。見たことの無い番号。日に何回もかかってくる。
登録してある事務所の人や、妹、由香の両親なら電話に出たが、知らない番号の電話に出る気力も無く、呼び出しが切れるまで、携帯画面を見ていた。
ある日、何気なくその着信に出た。
「……はい、、、、」
「あっ、出たっ!、、、失礼しました。私、須藤法律事務所の木下と申します。恐れ入りますが、所長と変わりますので、少々お待ち頂けますでしょうか?」
「……はい、、、、」---保留メロディが流れる---
「もしもし、初めまして。わたくし須藤と申します。この度のご家族様の件、ご愁傷さまでございます。早速ですが、保険金のお支払いに関しまして、こちら側の条件をお伝えしようと思いまして、、、、。今、よろしゅう御座いますか?」
「……はい、、、、任せます。」
「……えっ、あの~、そうおっしゃられましても、内容をご確認頂き、ご署名を頂かないといけないものですから、、」
「……はい、、、、」
「つきましては、どうでしょう、、、一度、こちらの事務所へご足労頂けませんでしょうか?」
「……はい、、、、いつ?」
「よろしゅう御座いますか、、、では来週の火曜日の午後ではどうでしょうか。」
「……はい、、、、分かりました。」
「ありがとうございます。では、来週火曜日の午後、お待ちしております。詳しい住所やアクセス方法はこの後、木下から伝えますので、このままお待ちください。」
「……はい、、、、」
「お電話、変わりました。木下です。弊社事務所は、、、、、、、、、」
このころから少しずつ、何をしたのか、聞いたのかを思い出せるようになっていたので、どうにか場所は把握できた。

翌週火曜日、午後。須藤法律事務所の応接室に二人の男性。
「相手方は、司法書士って言ったっけ。」一人が話し始める。
「ああ、そうらしい、、、長引くか、条件次第か、、、、保険会社に任せた日にゃ、どれくらい吊り上るか分かったもんじゃない。」
「多少の額なら個人で出すぞ。遠慮なく言ってくれ。」
「お見舞いか、お供えか、、、どっちにしても時期はずらそう、、、要求に即、答えたとあっちゃ、評判がな、、、」
「任せるよ。条件闘争か、、、、覚悟は出来てる。」
「同業者って言ってもさ、格の違いを見せてやるよ。任せとけ。」

暫くして晋平が、須藤法律事務所を訪れた。
「……高杉です。」
「……お、お待ちしておりました。どうぞ、こちらへ、、、」
パジャマ代わりのスポーツウェアの上下に、ジャケットを羽織っただけの高杉。足元はクロックスシューズ。何日洗っていないのか分からない頭髪。浮浪者の様な体臭もしている。まるで、認知症の徘徊老人の様だった。
応接室へ通された。そこには既にひとりの男性がいた。
「どうも、その節は、、、」とその人は立ち上がり、一礼しながら頭を下げた。
「……」晋平は無言のまま会釈し、勧められた椅子に座る。
もう1人の男性が封筒を持ち、入ってきた。「初めまして、須藤法律事務所の須藤です。」そう言って、名刺を晋平の前に置く。
「改めまして、私、小林と申します。」先程から座っている男性も立ち上がり、名刺を出して、晋平の前に置きながら言った。
「……」晋平は無言のまま、座ったまま会釈した。
暫く事故状況の説明や保険金の相場の説明の後、須藤が本題に入る。

「早速ですが、支払わせて頂く保険金は次のようになります。」須藤が数枚の書類を晋平の前に並べた。
「内容をご確認頂き、お聞きしたい事があればご遠慮なくおっしゃってください。」
「……」晋平は、目の前に置かれた書類に目を通すでもなく、テーブルの一点を見つめていた。
「……高杉さん?、、、よろしいですか?、、、、、、よろしければ、ご署名と振込先の口座をお教えください。」
「……」
「……高杉さん?、、、何か御不審な点でもございますか?」
「……え、、、いえ、、何もありません。」
「そうですか、、、ではこちらにご署名をお願いします。それとこれには振込先の口座をご記入ください。」
「……」
「高杉さん?、、、」
「……あの、、、これ、要りません、、、これ、差し上げますから、、、お願いが有ります。」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?