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妄想爺のとんでも史観 (13) ヤマト 

 ヤマト

 山の入り口でヤマト。(だって、、、端っことか入口の事を │端《はな》っと って言いません?方言ですか?)
 その地は、南に吉野山系と熊野山系。西に生駒山系、東に笠置山系から布引山地に繋がる西暦600年代位まで、湿地帯の広がる広大な盆地だったそうです。
 冬から春にかけては、でこぼこの荒れ地が広がる所で、春の終わりから梅雨にかけては雨が降れば大きな池がいくつも連なり、
 夏ともなれば背の高い草がどこまでも続き、人が歩ける場所は山沿いしかないくらいだったのではないでしょうか。
 ここを作物の収穫できる土地にしたら、いいよなぁ~、、、と誰しも考えるでしょう。

 そんな時、荒れ狂う川を制し、同じような湿地帯を大穀倉地帯にした神がいると、交易しに来ていた男たちが話していました。
 その地とは、出雲です。中国山地が海近くまで迫ってはいますが、島根半島との間には平坦な耕作地が広がっています。
 毎年、何度も荒れ狂う川の傍では、稲も豆もヒエや粟の畑も、出来そうな傍から流されたり、土砂に埋まってしまいます。
 比較的降雨量の少ない冬から春にかけて、麦とかが出来そうですが、春は雪解け水が川を下ります。堤防の無い所では、流されます。
 出雲へながれる河川の水源は中国山地です。今でもスキー場のある積雪地帯です。
 また、分水嶺は瀬戸内海側から20~30㎞くらいの所にあります。流域面積が瀬戸内海側河川の比でないくらい広域です。

 その出雲を、大耕作地帯にして住民を呼び寄せ、中国山地に自生していた巨木で刳船を作り、交易を始め富を蓄えていったのが、スサノオから大国主に繋がる一族です。
 斐伊川と言う荒ぶる”おろち”の、上流の山間地の山林を復活さるダム効果、川の付け替えや堤防作りと言う土木工事で、巨大な遊水池である宍道湖へと導きました。
 洪水や浸水の心配が無くなったら、穀物の栽培を増やします。食物の余剰は、人を呼び、交易も栄え、産業を興し、さらに交易を活発にし、富は蓄積されていきます。
 そういう事業は、優秀な人材が育ちます。知識も経験もある、組織立って運営できる技術者集団がいくつも出来ます。
 「俺の所に来て。」「俺の所に来てくれれば、いい女が沢山いるよ。」「どうだろう、俺の国の神となってはくれないか。」
 そう言った事もあったのではないでしょうか。
 越の国の九頭竜川流域(もしかすると八岐大蛇?の説あり)、そこから南の山を越えた琵琶湖の東側。能登半島を超えた神通川流域、その先の糸魚川流域。そして、奈良湖があるヤマト。

 瀬戸内海側の吉備高梁川流域、吉備地方を豊かにしたニギハヤヒは一足先に、ヤマトへ行っていたのではないかな?
 そのニギハヤヒが、出雲の大国主率いる出雲組の精鋭を呼び寄せた。のではないかと思うのです。
 瀬戸内海側の上町台地の先を通り、生駒山系を通りヤマトに向かおうとするも、困難を極めました。
 「なみはや」と呼ばれる海の難所、難波。湿地帯の広がる生駒山山麓。ヤマトから流れ出る川、大和川渓谷の亀の瀬。切り立った谷あいに起きる鉄砲水や地滑り。
 「亀の瀬に向かい合う形での工事は危険だ。ヤマトから攻めよう。」と、誰しも思う所。
 大国主率いる出雲組の精鋭は、熊野山系から吉野山系経由でヤマトへ入りました。

 どっかで聞いた事のある様な話、、、、神武東征の神武一行が、ナガスネヒコに蹴散らされて熊野へ迂回し、ヤマトに入った話し。迎えるはニギハヤヒ。

ではまた、お会いしましょう。
ごきげんよう。
やまとやじろべえでした。

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