春休み

 noteの記事を見返していたが全て深夜に書いた文章で少し笑ってしまった。
 「文章なんて深夜に書いて昼に直すものだ」と言ったのは誰だったか忘れたが全くもってその通りだと思う。増やすのに苦労するよりは減らすことに苦労する方が楽だ。筆が乗るのであればそれは楽しいことだし。

 今日は待ちに待った春休みの最中で、つらいときや悲しいときばかりnoteを書いているのはnoteが可哀想かなという気がしたので、少しだけ書く。

 春休みに入ってひと月ほど経った。「忙しい」と感じずに済むような生活をしているのでストレスはほとんどない。ただ、この私が楽なペースだと学校があるときと比べて作業が進まないことが明白で、少しだけ怖い(これが「ストレスはほとんどない」とする理由である)。

 そうやって書いているとじゃあ負荷を増やして来年楽になるようにしようか、という考えが頭を過ぎるのだが、精神は筋トレのような方法で鍛えられるものなのかは甚だ疑問である。
 私は常に元気で楽しく生活したいと思っているので「これで精神状態が安定しますよ」というメソッドに頼りたい気持ちが常に胸の奥にあって消えない。「普通になりたい」とは一切思わないが、「普通ならこれくらい平気なのかな」と思うときはある。

 それでいうとみんな元気すぎだよな。週に平均して5日とか6日とか外に出るんでしょ。下手したら7日出ずっぱりの人もいるんでしょ。怖。
 できることなら気が向いたときだけ外に出たい。外出は月に五度くらいにしたい。もっというとでかいバルコニーのある家に住んで毎日そこで外を眺め、実際に家の敷地外に出るのは月に一度とか二度にしたい。気持ちのいい空気だけ浴びたい。

 そうやって考えてみると私は本当に家の外にある様々な嫌なものから逃れたくて外に出たくないんだなというのが感じられる。あとまあ、着替えたくないんだなというのも感じる。敷地内ならパジャマでいいだろと思えるからね。

 つくづく、薄らぼんやりとしていても何も問題なく楽しく過ごせる人生でありたいものだと思う。
 昔は溺れながら必死にどこかに向けて泳いでいるような感じだったが、今は手漕ぎボートをうんとこしょ、どっこいしょ、と漕いでいるような感じである。楽ではないが漕ぐのを少し休んでも溺れはしないし、水流に乗るかコツを掴むかすれば楽になるだろう。

 鬱で休む前、私は普段すべてのお店の店員さんにお礼を言っていたのだけど、適応障害と診断され緊張の糸が切れたあとは顔を見ることもできなくなって、お礼を言うどころではなくなったのを覚えている。外に出るのも怖いし電車に乗るのも怖かった。心療内科の受付で支払いを終えたあと、お釣りを渡されたときにお礼を言えなかったのが私の中ですごく衝撃的で、理由はわからないんだけど「ああもう無理かもしれない」と思った。

 今もまだ外にでることを思うと胸の奥で「嫌だ!」と言う自分がいる。それをなだめて外に出ている。一時期は「助けて」と言われていたことを思えば、まだいいはずだ。でも怖い。心の声を無視し続けた結果が適応障害だったから。
 このあたりは祈るしかない。

 そんなこんなで私自身の体力や精神力にまだ問題は残っているという結論になったが、春休みを言葉通り休みとして満喫することにしようと思う。季節の変わり目だが気候は随分過ごしやすくなり、服も薄くなり華やいでいく時期である。近場に桜の木がなかったような気がするので、できれば花見に行きたい。

 結局暗かったかもな。おやすみなさい。

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