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黎明の蜜蜂(第16話)

支店に戻ったのは午後五時前だ。担当者を呼ぶ。
「例の不動産案件ね。うちは手を引くわよ」

担当者は驚愕の表情になる。
「ここまで来て何故ですか。もう引き返すなんて無理ですよ」
「あのレントロールね、現実的でない賃料の羅列よ。そんなもので計算した価格なんて空論。実際はその六割近くの価値しかない」
「えっ」

担当者の今井は絶句した。
「どういうことなんですか」
涼子は今日見てきたことを掻い摘んで話した。
「そんな物件、うちが関わる訳にはいかないでしょう。こんな話に私は決裁印なんて押せないわ」
今井は泣きそうな顔で後ずさりし、すごすごと自席に戻った。
 

あくる日、朝礼の後で支店長の鷺沼に呼ばれた。鷺沼は通常、皆の机を見渡せる店の一番奥の大きな机に座っているが、涼子がその机まで行くと、目で合図して支店長室に入って行った。

後をついて涼子も部屋に入り、ソファーに座った支店長の手振りによる指示でドアを閉める。
「お呼びでしょうか」
「まあ、掛けなさい」
鷺沼は涼子が向かいの椅子に座ると、おもむろに書類を取り出した。そばに寄らずとも、それが例の不動産案件だと分かる。

「この一棟売りアパートね、加藤様も大変乗り気なんだよ。早く契約に漕ぎつけてもらいたいね。うちの3月期の決算も目前だしね。実績を積み上げたいところだ」
「それについては担当者に詳しく説明しましたが、値付けが不適切と言うだけでなく、関連事情が問題含みでもあります。当行は関わらない方が良いと判断いたしました」

「君ね。この物件は現オーナー側の不動産会社だけではなく、うちのグループ会社のM不動産も買主の加藤様側として仲介を行うのは知っているだろう?」
鷺沼の声が少しずつ大きくなっていく。支店の業績だの、M銀行全体の業績への貢献だの、繰り返し繰り返し言い募り、最後は抑え込むような声で、言葉を発する。

「分かるね」
「申し訳ありません、支店長。支店の業績もM銀行全体の業績への貢献も非常に大事だと承知はしているつもりですが。でも、それは顧客への誠実なサービスと、それにより得られる信用の上に成り立つものと思います。私は、この案件は顧客も当行にも大きな問題をもたらすと危惧したのです」

鷺沼は怒りで顔を真っ赤にして黙り込んだ。口を開くと、怒鳴り声が止まらなくなった。
「君ね、何度も言うけどね。今は決算期の目標を達成するかどうかの瀬戸際だって、本当に分かってるのか? そんな小さな事ばかりにこだわって。副支店長なんだよ、君は。私の補佐、副官なんだ」

涼子が押し黙っていると、鷺沼は口をゆがめ嫌な笑みを浮かべた。
「M銀、いやグループ全体の連結決算を次の株主総会で発表するんだ。業界での立ち位置が変わるかも知れないんだ。そういう視点からものを見る。そういう大きな視点が持てないのかな、やはり女は」

最後は、先日配られたハラスメント防止マニュアルにも例として挙げられていた問題発言の一つと知りつつ、抑えきれずに発した。普段は気をつけているが。
ただし、気をつけているのは、口に出さないという点だけだ。怒りにかられると、口が滑る。

涼子は鷺沼の最後の言葉よりも、この一件を「小さな事」と評価しているところが気になった。
「この問題が小さな事とは、私は思いません。M銀の根幹を揺るがしかねないリスクを孕んでいると思います」

「大げさな。何がそんなに問題なんだ。家賃が高すぎるだって? そんなもの、本人が納得して契約しているはずだろう? それが『賃貸契約書に署名印鑑』の意味なんだよ。その家賃が高いか安いかなんて、我々の管轄外だ」
「その辺りが、どうも危ういのです。このまま進むと銀行のそもそもの存在意義、そして銀行ビジネスを成り立たせている根本的な要素、信用というものを失いかねないと危惧しているのです」

「大局も見えないくせに、大上段に構えた言葉ばかり繰り返して、時間の無駄だ」
「少なくとも、加藤様には価格設定の基になっている家賃の実情についてお知らせすべきと存じます」
「つまり、賃借人が生活保護を受けているというのがまずいと言いたいのか。家賃はきちんと払われているのにケチをつけるなんて、生活保護受給者に対する差別と言われかねない」
涼子は、そうではないと説明しようとするが鷺沼は聞く耳を持たない。

「ハンコ一つだ。さっさと押してきなさい」
鷺沼は有無を言わせぬ口調で言う。
「この話を進めては、結局誰の為にもならないと思います。もしその判断が間違っていると思われるのでしたら、この案件は一度本部のコンプライアンス部門に諮りたいと思います」

鷺沼は憎悪のこもった眼で涼子をにらみつける。もういい、勝手にしなさい、と怒りに震える声で吐き捨てるように言う。涼子は静かに、失礼します、と言って席を立った。
 


章太郎が不安げな眼でこちらを見ている。涼子は自分がスナックにいることを思い出した。

この人には、銀行内のあまりに生々しい人間関係は言わない方が良いだろう。M銀で長く働いていく人だ。将来一緒に働くかも知れない人達の先入観を植え付けかねないことは避けたい。

涼子はそう思って、要点にしぼって経緯を説明した。章太郎の唇が震える。
「高島さんは、そのために左遷されたんですか。そんなの、駄目ですよ。何故、そんな辞令を受け入れたんですか」
「左遷かどうかなんて分からないわよ。人事部は辞令に説明書きなんて付けないし。今回のことではなく、何か他の理由があってゆうゆう銀行に出向、となったのかも知れないわ」
「それは、ないでしょう。高島さんはいつも出世頭だったんだ。それが急に、そんな辞令、理解できません。」
そうかしらね、と細く言って涼子は少し顔を傾けた。
                         (第17話へ続く)
黎明の蜜蜂(第17話)|芳松静恵 (note.com)

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