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病んでた

もうやめてもいいんじゃない? やめちゃいたい!と思うくらいでした。やめるとは? 生きることを、です。
私はけっこう意地汚い方だから、どんなにつらいことがあっても「死にたい」とは思わないです。「あー死んじゃいたい」とは言うけどそれはティッシュペーパーくらいの軽さで、鼻かんだら忘れます。今日のコーデみたいなもんです。ハッシュタグつけて消費しようね。
ただ、昨日くらいからキてて、久々に今朝『やめたい』と思いました。こんなに苦しいのはもうやめたい。今までは仕事に不満を抱えてだらだら生きてきてたので『やめたい』はすぐ仕事に繋がって口に出る時は「仕事辞めたい」という別のものに変換されてました。それはそれで良かったのかな。何か嫌なことがあったら全部仕事のせいにできたのに、今は仕事が面白くなってきてしまったので魔法の呪文を失い、ツイッターで勝手に他人のエゴ食らって頭に熱を溜め込む。
理由もなくただ、腹の底に重たくて暗い何かが台風前日の雲みたいにものすごいスピードでぐるぐるしてて、電車に乗ったけど頭の中がまだヒリヒリ熱を持ってた。『フラニーとズーイー』の最後から4枚目のページを家を出る直前に読み返して涙ぐんだり、ニーバーの祈りを頭の中で何回も繰り返してみたけどそれでも吐き気がしてまだ息苦しかった。
ガラガラの電車で好きな本を開く。耳にイヤホン突っ込んで、適当に再生した音楽。その歌詞が電車の揺れと一緒に突然頭の中に割り込んできて、私は目が覚めたような気持ちになる。
『似合わない街に行こう、睨まれて帰りたいな、僕の世界をつくりたいな』
びっくりするくらい呼吸が楽になった。なんだこれ。それから友達と会う。会うと、好きだな楽しいな離れがたいな、と思う。短い時間でも会えてよかったなと思える友達がいて私は幸福。
いつだって私を救ってくれるのは誰かなんだなぁ。残念ながら私じゃない。私は私を愛することしかできなくて、ひとりじゃ救うことすらできやしない。
『死にたい』って思うこと自体はきっと悪いことじゃないのに、世の中のこうあるべき論に組み込まれて『死にたいと思うなんて良くない』と自動思考で思う。家族が友達が知人が悲しむからって、死んだ後のことなんかどうでもいいのに。だって私だってお父さんが死んだときは悲しかったけど、今は平気だよ。死んでよかったねとすら思ってるけど私は私を薄情とは思わない。死んでよかったね、と思うけど、私は私が父をものすごーく好きでいたことを知ってるもんな。あ、なんか涙出てきた。なんだまだ悲しいんじゃん。私が見捨てるようにしてしまった連絡の途絶えたあの人生きてるかな。思い出す度に離れてしまったことの罪悪感で夜中に声にならない叫びを洩らしたけど、もうやめようと思う。きっとあの人はもう死んだ。だから終わり。そもそも私は『見捨てる』立場にいるほど関わってなかったのだからこれも傲慢。『後ろめたい』ってそれ結局は自分のことしか考えてないもんな。自分にずっとピントがあってるから周りが見えてないんだよ。
死ぬに値する理由がなきゃ死ねないのもなんか変だな。ケーキ食べるのに理由要らないじゃん。食べたいから食べる。死にたくなったら死んだっていい、いつだって死ねる。いつでも死ねるのだから今じゃなくていいんじゃない? そんなこと思って歩いてたら、帰り道、夕陽で目がチカチカした。子供の頃は、目に焼き付いたこのチカチカをずっと見つめていたな。楽しかったな。生きたいな、もっと、楽しいを味わいたいなぁ。結局私は今日なんであんなにクサクサしてたんだろうなぁ。


自分が変えられないものを変えなくてはと義憤に駆られていたなあ。けど、それは私の問題じゃないんです。自分の傲慢さに恥じ入る。射精した癖にセックスワーカーに説教するおじさんと一緒だな。「私はこうしたから貴方もこうすべき」理論が息を吐くように溢れてしまう。ありがた迷惑でウザいのに。そんでアドバイスを実行しない人に裏切られた気持ちになったり、うんざりしたり、勝手に「諦める」やな奴だな〜。そしてそんな人を見かけると大嫌いだなと思うから、余計に自分が嫌になる。


つい先日、妹の子供が悪いことをしました。それはいけないことだと教え、叱ったつもりだったのに、また同じことを繰り返してしまいました。しかも叱られた次の次の日くらいに。
それを聞いて、私は最低なことを妹にいいました。「あんたの叱り方が悪かったんちゃう?」
幸い、妹は私のこの言葉にひどく傷付いたことを全身で表現しました。涙して、そのあと数日イライラした態度で、必要最低限の会話しかせずに笑わなくなりました。
私は妹との同居解消を考えるほど妹の態度に滅入りました。

相手が妹じゃなかったら、きっとそんな無神経な言葉投げなかったと思います。他人にしないことをどうして妹にしてしまうのだろう。妹が私に頼ってくれたり相談してくれることに調子に乗って、私は妹を自分よりも下の存在だと思い、サンドバッグにしているのだろうか。
妹が数日怒り続けなれば、私は多分またこの問題を見ないふりして忘れたんだろうな、と思うとゾッとします。
誰だってみんな、正しい人間になりたいんじゃないかな、と思います。正しくありたいから、正義に燃えて戦う人が沢山いる。SNSはそういうことを私に教えてくれました。でも中には正義を振りかざして人を傷付ける人も沢山いるし、そういう人ってほんと、柔らかい言葉で言うと『ダルい』なって思う。めんどくさい。綺麗な場所から正しくない者を見下ろすのは気持ちいいですよね、分かります。
妹の子供を正しい人間に導くべきと思ってる私が妹に正しくないことをする。正しいか正しくないかってなんだ。こうやっていつも言葉の迷路でぐるぐるして本題をみうしなう。私がやるべきだったのは、もう十分悩んで落ち込んで参ってる妹を否定することじゃなくて、姉として正解のない問題を一緒に悩んで悩んで悩み抜くことで、そこに私の押しつけがましい正義や教師然とした態度は要らなかったよなと、今では思います。というか、自分の実体験からだけど、子供なんて勝手に立派に育つと思うし、立派な教育にばかり思いを馳せないで、自分の思う最善をただ繰り返していくしかないのかも。でも自分が苦しかった分、『正しい教育』を求めてしまう。しかも私は母じゃなくてオバチャンなのに。私はあくまで他人。でも一緒に住んでるから境界が見えなくなっちゃう。


ああどうか、私の思いどおりにならないことをキレずに受け入れる心の平静さをください。変えられないものと変えられるものを見分ける叡智を与えてください。
私は無宗教なのですが、こんな時だけ神学者の言葉を借りていいのかな。いいか。私が神様だったら自分を信じないものだってきっと余すことなく受け入れるもんな。私は神様じゃないから今私のことをありのままに好きでいてくれない奴なんか嫌いだけど、神はきっと違うはず。どうして私はこうも飽きずに呆れたおこないを繰り返してしまうんでしょうか。私は今日、生き延びました。おしまい。

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