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今年学びたいこと〜色褪せない憧れ

 大学生の頃、ぼくはアルバイトに明け暮れていた。二流大学だったが理工学部の学費は安くない。それに通学の定期代、毎日の昼ご飯代、文房具にテキスト。稼いでも稼いでもお金が足りなかった。アルバイトはビルの床清磨きと窓ガラスの清掃だった。強い洗剤を使うから手は荒れ放題だったし、ビルの3階から落下して大怪我をしたこともある。時給は650円と割に合わなかったが、実入りの良いアルバイト先を探す時間があれば働くことに時間を充てた。
 そんな勉強とアルバイトに追いまくられる学生時代だったが、ぼくには細やかな楽しみがあった。それは二輪車の運転免許を取得することだった。

 アルバイト仲間の一人に一つ年上の先輩がいた。彼はアルバイトにやって来る時にオフロードバイクを颯爽と駆ってきていた。高校中退の後輩は将来レーサーになりたいと言って、ホンダのバイクを乗り回していた。二人とも仲が良くてバイクの後ろに乗せてもらうことが度々あった。二人ともかっこ良く見えて仕方がなかった。ぼくはアルバイト仲間から、バイクに関する刺激を常に受ける環境にいた。
 —自分も運転してみたい。
 この欲求は日に日に大きくなっていった。

 貧乏学生に高価なバイクを買うお金なんてどうやったって捻出できない。しかしぼくには指をくわえて人を羨ましがる素養がなかったようだ。
 —とにもかくにも運転免許を取ろう。
 将来設計など全く考えてもなかった。運転免許を取れば何とかなる。ぼくは一度走り出したら止まらない。
 自動車学校に通うためには十数万円のお金が必要だったが、一ヶ月のアルバイトから必要経費を差し引くと、残金はわずかしかないというかマイナスの時もある。
 —もっと働けばいいんだ。
 そんな安直な思いがあの頃のぼくの原動力だった。ぼくは遮二無二働いた。だから遊びに行く暇などなかったが、たかが数十万円のお金を貯めるのに三年も費やしてしまった。やっとの思いで貯めたお金だったのに・・・。

 親父が通勤途中に交通事故を起こした。自家用車で歩行者をはねた。前方不注意で全ての過失は親父にあった。被害者の方は骨折して入院し、母は相手方の見舞うために病院と保険会社に奔走し、狼狽する毎日を送くることになった。そんな母を横目で見ながら、自分はのうのうと自動車学校に通っていいのか、悩んで悩んだ末に、ぼくは必至で貯めたお金を母に渡した。ぼくの細やかな夢はこんなことで潰えてしまった。

 卒業してあちこちの現場を回る建設会社に就職し、仕事に追われる日々が何年も続いた。今で言うブラック企業だ。週休二日というのは名ばかりで、土曜日は当たり前のように現場が動いていて、日曜日も休めるか休めないか危うかった。当然ながら祭日などない。町中の現場など皆無に等しく、山の中の飯場で寝泊まりする日々だった。30歳を前に結婚して子供も授かったが、職場環境は何も変わらない。安月給で家族を養うためには、自分の趣味なんて言ってられなかった。ぼくは遮二無二に働いたが、辛いとか苦痛だとか思ったことなど一度もない。家族が幸せでいてくれるなら、ただそれでよかった。そしていつしか学生時代の夢など忘れ去っていた。

 あれから何十年の時が流れただろうか。60歳を前にして子供たちは独立し、妻と二人きりの暮らしが戻り、生活に少しゆとりができた。自分の人生を振り返って見ると、やり残してきたことはたくさんある。一度きりの人生だから、まだ身体が動くうちに取り戻せるものなら取り戻したい。そんな思いが日に日に強くなっていった。真っ先に思い浮かぶこと。記憶の隅に追いやられた学生時代の夢・・・。
 —二輪車の免許を取ろう。

 初老のおじさんが二輪車の免許を取りに自動車学校に入学したい、なんて言ったら変に思われないだろうか。自動車学校の教官たちは、ぼくの容姿を見て鼻で笑うだろうか。それに取り戻したい夢なら他にもあるでしょ、いい歳をして危ないからやめなさいと妻は言うだろうな。自分でも馬鹿なことを言っていると思う。
 しかし危ないとか危なくないとか、その代用に年相応の他のことをするとか、夢ってそんなことで片付けられることではない。必要なのは情熱だ。学生時代も60歳近くになった今もそれは変わらない。いや、変わってたまるか。

 学生時代は若くて体力もあったがお金がなかった。今は、お金は何とかなるが若い頃のように動けない。条件はイーブンじゃないか。やってやれないことはない。

#今年学びたいこと

「通勤電車の詩」を読んでいただきありがとうございます。 サラリーマンの作家活動を応援していただけたらうれしいです。夢に一歩でも近づけるように頑張りたいです。よろしくお願いします。