2023.08.23-8.31 老いと貧しさ

 最近、朝目覚めた瞬間に、カラダ中にこべりつくどろっとしたタールのような疲労を何千回と繰り返されてきた生活の記憶へのすり替えによって、消し去ることにも限界がきているようだ。カラダが、細胞の壊死と再生を繰り返しながら、岩が落ちてくる水滴に長い時間をかけて削られるように、ゆっくりと音もたてず丸く丸く削り取られていく。そして、それを誤魔化すために、生を受けたときから同じ感覚が、ー生の感覚がー、永続しているかのように、感覚の経験をぬるっと重ね塗りをし、欠損した身体を盛り上げていた。ただそれもとうとう、塗ったくるそばからひび割れが生じ、ごまかしのカラダが染み出し、少しずつ流れ出てきているようだ。

 そこで私は気がつく。否が応でも縮んでいく自分のカラダへ意識を向けざるを得なくなる中で、自分の生の貧しさを味わっていることに。私は母の子宮にいた時からカラダに閉じ込められていた。人は確実に死ぬのではなく、私の崩壊の過程で暗闇の中から突如露になる貧しさが確実なのであって、結果的に死ぬだけなのだろう。この貧しさに清々しさを感じる。自分にかけられていくひとつひとつのカラダによる制限は、自分の「生」を型取ってくれているような気がしている。これまで偶々この世に生を受けてから、”偶然”に接し、時には”偶然”の中を生きてきた。時には、唯一確かなものは自らの身体であり、その身体を突き上げ、天に浮かせてきたどこかもわからない身体の奥底から発せられるエネルギーこそが生だと信じていた。またある時は、自らを開拓者や設計者として、自分の生の”意味”を開拓し、人生を型取ることに没頭していた。ただ、たったいま信じられることは、そこにある自分への絶望と希望への感覚。それは、諦めや期待ではない。私は人生を全うできないが、生は、生だけはこれから全うできそうであるという感覚。すべてが消え去り、すべてが手に入ったような感覚。

 だからこそ、いま、ここで、私は死なないのだ。私は閉じ行くだけなのだ。これは仕様がない事であり、私の眼前にある紛れもない彫刻なのだ。それでいて、私は「いいものが見れた」と拝むのだ。これから私を幾度となく襲う痛みも私を縛り付ける永遠なる退屈にも耐え忍ぼう。だから、ただひとつ、空だけは空だけは何者も邪魔しないでくれ。四方に囲まれた白い壁を一斉にぶち破り、無数の電線を引きちぎり、幾度となく見てきた高層ビルの窓ガラスの1つ1つを蹴散らしながら、上へ上へと昇っていく。壁の白い粉が顔や体を覆い、首や足腰に巻き付く長く黒い電線を宙でゆらし、皮膚に食い込むガラスの破片に無数の光を反射させながら上へ上へと昇っていく。

私は龍ではない。私は私でもない。
ただ血を流すだけなのだ。

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