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しあわせ観 相互不可侵条約 ~「春にして君を離れ」でオンライン読書会をしました


かねてからのファンの紀野しずくさんからお誘いをうけて、
アガサ・クリスティー「春にして君を離れ」でオンライン読書会をしてみました。


初めて”ペア読書”の形式で本を読んでみましたが、さすがに30分300ページは難しく…。結果、別日程を取って感想共有会をすることにしました。snap cameraのアバター(ポテトとボールペン)で仲良くやってました。(笑)

一緒に読んだしずくさんの感想noteはこちら!
難しいことを考えつつも、すっきり構造化してわかりやすい文章にまとめるしずくさんの文筆力、感服です。。!


以下、私が「春にして君を離れ」を題材に考えたことをまとめてみます。
ネタバレを存分に含みますのでご注意ください!



―*――*――*ー



なにか選択に迷って人に相談しよう、と思うとき、
他人の価値判断の軸に押しつぶされそうになってしまうことがあります。

大切な人に「どうしたらいいか、迷ってるんだよね」と相談されたとき、
つい張り切って自分の価値観を押し付けすぎてしまうことがあります。

「新しい職場の上司が最悪で、まだ仕事を始めて1週間なんだけど辞めようか迷ってるんだよね…。」
『え、それってありえない。1週間で辞めるなんて失礼だよ。最低でも1ヶ月は続けないと、合うか合わないかなんてわかんないじゃん。』
「え、そっかぁ、そうだよね…。わたし、根性なしなのかなぁ。。」
『今が踏ん張りどころだよ。仕事を覚えたら絶対たのしくなるって!あんなに頑張って、憧れのZZ業界で働けるのに、すぐやめちゃうなんて勿体なさすぎ!頑張ってよ。応援してるよ。』


どうしたら、受け入れすぎることもなく押しつけすぎることもなく人と人との境界を守って尊重し合えるのだろう。親子や家族の関係など、大切だと思えば思う相手ほど境界を守って接することが難しく感じます。
読み終わって以後、ずっとそんなことを考えていました。

「私の考え」を相手に押し付けすぎないために、「相手の考え」を私に貼り付けすぎないように。考えたのは3つです。


まず前提として、

*私たちが"100%わかりあう"ことは叶わない


いくら言葉を尽くしても、どんなにわかりたくても、人間どうしが100%同じ感情や認識を共有することは叶いません。単語の微妙な定義や印象も人によってズレがあり、同じ言葉でも受け取り方は違います。

思ってみればあたりまえのことなのかもしれません。
でも、衝撃じゃありませんか……目の前のこの人は、私と言葉を共有して会話をしているのに、まったく同じように認識しているかと確かめる術はない、なんて…!

誰かのいう「これが良い!」「これは嫌い!」といった価値判断には、ひとことだけではわからない相手なりの定義や背景があるのかもしれません。

「人間なんて、まあ、そんなものよね。しがみついてた方がいいのに、投げ出しちまったり、ほっとけばいいのに、引き受けたり。人生が本当とは思えないくらい、美しく感じられて、うっとりしているかと思うと――たちまち地獄の苦しみと惨めさを経験する。そんなことは長続きしたためしがないんだし。どん底に沈み込んで、もういっぺん浮かびあがって息をつくことなんて、できそうにないと思っていると、そうでもない――人生ってそんなものじゃないの?」 by ブランチ


―*――*――*―


そして、

*他人の信念や価値観を変えることはできない


「春にして君を離れ」は、登場人物それぞれがどんなことを幸せだと思っているのかが明確になるようなシーンを含んで描かれていました。

ジョーンの「幸せ」
……身の回りを守り、冒険や大きな変化は避け、他人が羨むような自身の幸福をかみしめて生きていくこと
ブランチの「幸せ」
……心からわくわくするような選択をする自由をもち、ジェットコースターのような人生を楽しむこと
ロドニーの「幸せ」
……お金や地位・名声はなかったとしても、豊かな自然を楽しむこと、他者の信頼を獲得すること
サーシャの「幸せ」
……さまざまな人と話をして、経験や考え、感じたことを交換すること

ほかにもたくさんのキャラクターが登場しましたが、他者のしあわせ観に気づいている人も、気づいていない人も、気づかないふりをしている人もいます。

夫ロドニーのしあわせ観を ”あえて考えないようにしているからこそ、気づいていなかった” 主人公のジョーンは、鉄道の遮断による長いレストハウス生活で夫や娘のしあわせ観に気づきはじめ、自分のしあわせ観を夫に押し付けたことで窮屈な思いをさせているのではないかと疑いはじめました。

ジョーンが自身のふるまいを自省する段階は、読者にも否応なく自省をせまります。「あなたにとっても、絶対にこの選択がしあわせだと思うの」「私はこういう人だから、さ。合わせてよ」と、わたし自身のしあわせ観に他者を巻き込んでいなかったか、と不安が募るばかりでした。
今でも、「あなたはhow to的な文体で他者との関わりかたを説くような立場か? ああ、poor little sprout, 」なんて自分に話しかけてしまうくらい。


でも、どうしたって私は私の外に出ることができず、
「春にして君を離れ」のエピローグでロドニーの視点から語られるような、自分のふるまいをまっさらな他者の視点から見ての答え合わせを読むことは一生叶いません。(読んでみたかったなぁ…)


それならば、せめて他者と自分の価値観を分けて考え、「しあわせ」に主語をつけて捉えることで、
私はしあわせだと思っていることでも、あなたのしあわせではないかもしれない、ということを念頭において他者と関わっていようと思うのです。

自分が「あなたはこうすべきだ」と思ったとき、
「あなたがこうしたほうが”私は”いいと思っている」と言い換えてみる。
そして、他者に言われる「これは、あなたのためを思って言っているのよ」には、”あなたは”と主語をつけて認識してみる。
しあわせ観の相互不可侵条約は私たちを、少しは自由にしてくれるのではないでしょうか。

「あなたの」意見を私に対して言われていると捉えるならば、
「どうして、あなたはそう思うの?」と聞いてみるのも怖くない。

どんな理由で、●●をしあわせだと思うの?」
「なにかきっかけがあって、○○するようになったの?」
「ところで、私は◇◇が好きで、そうしたいと思うなぁ」


家族だから、友達だからって、まったくおんなじ価値観をもつわけなんかないし、その必要もない。
5年前の私のしあわせ観・1ヶ月前の私のしあわせ観・今のわたしのしあわせ観は違っていてもよいはずですし、この先も変わっていくことは自然だと思います。


―*――*――*―


人は分かり合えないし、変えられない。
としたら、近しい人の不快な言動にはずっと黙って耐えなきゃけないの?

いいえ。
そこで、価値観と行動をあえて分けて考えてみたいと思います。

*わかりあえなくても、変えることができなくても、交渉することができる


ある価値観をもっていることと、お互いに譲れない条件を出して折衝をこころみるのは別のことだと考えています。さらに、約束をしたときの価値観のままずっといることと、交渉結果としての約束を守ることは別のことです。


価値観をわかってもらえなくても、要求を伝えることはできる。
要求に対してnoと言われることは、”しあわせ観”そのものが悪いと言われていることにはなりません。


「新しい職場の新人トレーニング担当者が最悪で、まだ仕事を始めて1週間なんだけど辞めようか迷ってるんだよね…。」
『え、それってありえない。1週間で辞めるなんて失礼だよ。最低でも1ヶ月は続けないと、合うか合わないかなんてわかんないじゃん。』
「そうなんだ、あなたはそう思うんだね。私は高圧的すぎる上司といると、焦って仕事を覚えるどころではなくなってしまうんだ」
『そっかぁ。でも、もう一度あの転職活動を金銭面で支えていくのは僕には自信がないかも。頑張ってやっと入った業界で働けるのだから、別のトレーナーにつけないか掛けあってみるのは手なんじゃないかな』


―*――*――*―


「わたし」と「あなた」の視点を混同すること、
「あなた」の視点を故意に無視し続けることは、人を殺さずして人を殺し続けていることと同じようなもので立派な正義の暴力になりうるのだと、しずくさんともお話ししていて思いました。

SEKAI NO OWARIの「Death Disco」の歌詞

正義、正義、セイギ、セイギセイギセイギ…
の中にあるたくさんの「犠牲」を君は絶対疑わない

をすごく思いながら読みました。

読後感がよい本ではありませんが、考えることはすごくたくさんあります。
まだ長引きそうなおうち時間、興味がある方はぜひ!☺
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