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「おふでさきの物語」 第四章 その2

 毎日人々が神様への祈りを全身で表現するようになたなら、これほど神様にとって嬉しいことはありません。神様はできるだけ早く、祈りを捧げるべき人々をこのぢばに集めたいのです。どうして人々はこの神様の思いを理解しようとしないのでしょう。世界には心遣いもすばらしくで、どうしてあんな人がこんな目に遭うのかとおもうようなことがあるかもしれません。でもそれも世界中の人々を救いたいという思いからさまざまな出来事をみせて祈りを捧げるべき人や理想社会建設の人材を集めているからです。また集めた人々をどのようにして役立てるのか。それについても神様はさまざまなことを考えているのです。神様の考えていることを、すべて人々に話し、人々が神様の考えを理解したなら、すべての人々の心が元気になって喜び勇んでくることでしょう。たとえ全部をはなさなくても、少しずつ、理解させながら話していくうちに、人々は心の中から、或いは体の内側から、さわやかな気持ちやきれいな体になっていくことでしょう。ですから、将来きっと捧げられるであろう、人々の喜び勇んだ神様への祈りを待ちわびているのです。その祈りは人々だけでなく神様も元気になるような祈りなのです。
 でも実際には、世界中のこれほど多くの人々がいるのに、神様の心を知ったものなど誰一人いません。ですから今回、本当に神様が思っていることをすべて詳細に人々へ伝えようと決心したのです。神様の心を理解したなら、ほかのどのような学問や教えにも劣ることのない素晴らしいものが身につくのです。
 今回、神様の心にかなったものと、神様の心を知らぬ人々がつくった様々な学問や教えをしっかりと区別しようと思います。神様の心を理解したなら、神様の心に積もった残念な気持ちをおさまってくることでしょう。そうして神様の心に積もった残念な気持ちがおさまったなら、それだけで人々の心は隨分と元気になるのです。神様の心とは人々の心を元気にさせたい。救いたいというそれだけなのです。そうして本当に人々の心が救われたなら。人々は病気になることも老いることもなく、そうして死をおそれることもなく、心に願うだけこの世界で元気に暮らせるのです。そうなるとどんなに年月がたっても何歳かわからないくらい人々は元気に暮らせるようになるのです。人々は今まで何も神様の心を知りませんでした。でもこれからは、どのようなことでも神様の心をしっかりと伝えて行こうと思うのです。今まで人々の心と神様の心はあまりにもかけ離れていましたが、将来は人々に神様の声をしっかりと伝えて理想社会の建設に頑張ってもらおうと思っています。神様の声にしっかりと耳を傾けて決して疑うことなく、一心にこの道を歩んでいかなければならないのです。神様の声に耳を傾ける人々が日々歩む上で、さまざまな病気や災難に出会ったときは、しっかりと考えなければいけません。心遣いが違ったり歩むべき道がずれていたりするのを、神様が教えているのです。自分自身の体に起こるさまざまな出来事から神様の心に気づく努力をしてしっかりと神様の声に耳を傾けて歩んで欲しいのです。中には、ほんのちょっとした出来事に思うようなことにしか見えないようなこともあるかもしれません。でもそのように思えることでさえ、その出来事の裏側には神様には深い考えが存在するのです。今はまだ、どんなことも見えていないかもしれませんが、きっとすぐにさまざまなことが見えてくるようになるでしょう。しっかりと神様の声に耳を傾けてこの道を歩む決心をすることが大切です。ただ今はどんなに多くのことを人々に伝えようと思っても、誰も神様の心を悟りとることができていないので、なかなか伝えることができないでいるのです。ここまでいろいろと伝えてきましたが、誰も神様の心を分かってはいません。そのことが神様にとって本当に残念なことなのです。どんなことでも、神様の声をしっかりと聞いて実行することが大切です。でもその言葉をどのように受け取るかは、それぞれ各人の受け取り方次第で変わってくるでしょう。神様の声を喜んで受け取り、それをしっかりと考えて実行し、神様の心にしっかりともたれきって、陽気に元気に祈りを捧げることが大切なのです。この話は、いったいどういうことかというと、理想社会建設に向かう人々の心の栄養のようなものなのです。世界中の心を元気にしていく上で本当に大切な話なのです。
 では、いったい何が心の栄養になるのでしょうか。それは心の中にある誠の心、真実の心が神様の心に届いて、初めて栄養分となるのです。神様に人々の真実の心、誠の心が届いたなら、きっとどのような願いも叶えられるでしょう。しっかりと聞いて考えなさい。どのようなことも、すべてしっかりと神様は伝えていくのです。たとえどこでどのようにくらしていても、なんの隔てもなくしっかりと教えていこうと思うのです。これから先、どのような人が「ぢば」に帰ってくる子もしれません。でもそれらの人々に対しても、考えられないほど深い神様の思いが込められているのです。

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