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おたねさんちの童話集 「雨蛙のエルル」

   雨蛙のエルル
 
雨が上がりました。
雨蛙のエルルは蓮の葉の上で口笛を吹きました。
空にかかった虹があまりに綺麗だったからです。でも、だんだんとお天道様がまぶしくなってきたので、水の中へと戻ろうかと迷っています。
「本当はもう少し虹を眺めていたいんだけどな」
エルルが、そう呟いたとき、皮肉にも虹は、スーっと消えてしまいました。
「まっ、いいや」
エルルは水の中にドボンと飛び込みました。
この池は用水路を通って、水田へと繋がっています。普段は途中で堰き止められているので、フナやドジョウたちは辿りつくことができません。でも、水縁をピョンピョンとはねて、エルルは水田へくることができました。エルルにとって、この水田にくることは、大きな楽しみでありました。大好物のヤゴがたくさんいたからです。
「ねえ、ねえ。今度、僕も水田へ連れていってよ」
そう言ったのは、弟のケルルでした。
「お尻のしっぽが全部無くなったら連れていってやるよ」
ケルルは、やっと地上へあがれるようになったので、いろんな所へ出かけたくて仕方がないのです。
「もう赤ちゃんじゃないから、へっちゃらだよ!」
「よく言うよ。この間まで、ちょっとフナがジャンプしたくらいで、池の隅っこで震えていたくせに」
エルルは笑って言いました。
「だって、あの頃は、まさか腕や脚が生えてくるなんて思いもしなかったんだもん」
ケルルは真っ赤な顔で言い返しました。
でも本当はエルルもケルルのことを笑えません。
だって、少し前まで、エルルだって同じように思っていたのですから。
初めて肩の辺りがつっぱってきたように感じたとき、エルルは病気になったのかと本気で悩みました。相談したくても、お父さんやお母さんはどこにもいません。やがて手や足が生えてきたときも、自分がどうなってしまうんだろうと悩みました。
自分が、オタマジャクシとはまったく違う化け物か怪物にでもなっていくようで、本当に恐ろしかったのです。
「よく言うよ。お前たちは、お兄ちゃんが先にカエルになったのを見ていたじゃないか」
エルルはなるべく平静を装いながら言いました。
「でも、あの時は、僕までそうなるとは思ってなかったから……」
「まあ、そう言うな。ちゃんと蚊やハエを捕まえることができるようになったら、連れていってやるよ」
「ほんと?」
「ああ。連れていってやるよ」
「やったー!」
ケルルは大はしゃぎです。
「じゃあすぐに蚊を捕まえる練習をしてくるね」
ケルルは草の生い茂った、薄暗い池の隅っこへ一直線に泳いでいきました。
 オタマジャクシだった頃のエルルにとって、世界とは、すべて小さな池の、それも水の中だけのことでした。ほんの少し魚が横切っただけで、すぐにあたりが泥色になってしまうような水中の世界だけです。もちろん水面の上に別の世界が広がっていることを、なんとなくは分かっていましたが、それはまったく自分とは関係のない世界としか思えませんでした。この小さな池の中こそが自分の世界で、そこから飛び出すことなど想像すら出来なかったからです。
 でも、やがてエルルは体のちょっとした変化に気づきました。体中がムズムズとしてきて、所々痛むところが出てきました。やがて、手や足が生えてきましたが、何のために生えてきたのかもわかりません。それどころか、泳ぎにくくて仕方がありません。
「どうして、こんな風になっちゃったんだろう?」
エルルは不安でいっぱいでした。
これからおこる、素晴らしい未來を想像するヒントもなかったのです。
そして、もっとも恐ろしいことが起きました。なんとエラがなくなってきたのです。それは水中で息ができなるということでした。
ケルルは水中の中で、バタバタと、もがきました。もう死を覚悟するほどに。そうして諦めかけたそのとき、産まれて初めて、水面に顔をだしたのでした。
「息が出来る!」
エルルは驚きました。
生きている中で、一番辛かったことが終わると、世界は、驚くくらいに美しい景色へと変わることを、エルルはこのとき、初めて知ったのです。
だって、生まれて初めてする呼吸と、水面の上の透き通った世界を同時に体験したのです。絶望が一瞬にして希望に変わることが、この世にはあるのです。エルルは、ただ頭を水面の上に突き出して、その景色に見とれていました。
こんな世界があったなんて、エルルの驚きは、どんな表現でも追いつかないほどでした。
それからエルルの「探検」が始まりました。
樹木に登って昆虫を捕まえることも覚えました。地上の世界には、水中よりも沢山の敵がいることも分かってきました。
蛇や鳥やネズミやらに、多くの仲間が食べられていきました。水中にも沢山の敵がいましたが、スピード感も距離感も、そうして音の感覚も全然違いました。けれども、エルルにとって、地上での恐怖よりも、好奇心の方が遙かに上回っていたのでした。
水面に光る水面のささやき、空にかかる虹、青い山々を金色に染め上げる夕日。そんな初めて見る美しい景色を見つける度にエルルは、地上に出て良かったと思うからです。
「いったい何を、そんなに見つめているんだい?」
声を掛けてきたのは、エルルとはまったく容姿の違うカエルでした。
「あなたもカエルなの?」
エルルは驚いて尋ねました。
「当たり前じゃ!お前達よりもずいぶん前からここで暮らしておるんじゃぞ。とはいえ、もちろん、わしはお前達雨蛙とは別の種類のカエルじゃがの」
「雨蛙って僕らのこと?」
「お前さんは、自分が何者かも知らんのか。こりゃ驚いた。いいか、カエルにもたくさんの種類がいるぞ。ウシガエルやガマガエル、アオガエルにアカガエル、ヒメアマガエルにナミエガエル、もう数え切れんぐらいじゃ。そして、わしらの仲間は、トノサマガエルと言うんじゃ。」
エルルは、黙って聞いておりましたが、少し不思議な気がしてきました。
「どうして、そんなに多くのカエルがいるのに、僕たちは、まだ、誰にも会っていないの?」
「そりゃ、お前たちの生まれた池はアマガエルが多いからな。水田のあたりは、わしらトノサマガエルが多かったんじゃが、いつのまにか、誰もおらんようになってしまった。」
「他のカエルたちは?」
「ワシにも分からん。いつの間にかみんな、おらんようになってしもうた。」
そういうと、トノサマガエルは、どこかへ行ってしまいました。
「ねえ、ねえ。お尻のシッポが無くなったから、僕も水田へ連れていってよ」
ケルルにまた、そうせっつかれたのは、それから間もなくのことでした。
「いいよ。連れて行ってやるよ!!」
エルルが、そう答えたのは、また、あのトノサマガエルに会えるかもしれないと思ったからです。
「ねえねえ、こんな遠くまで来ても、大丈夫なの?」
ケルルは、言葉とは反対にとっても楽しそうに跳ね回っています。
「こら!そんなに騒ぐな、誰かに見つかって食べられても知らないぞ!」
エルルは、そんなケルルが心配でなりません。つい最近まで、ケルルと同じように、はしゃぎ廻っていたことなど、忘れてしまっているようです。でも、それは、当然のことなのかも知れません。エルルは、これまでに何度も悲惨な光景を目の当たりにしてきたし、自分自身も危ない目に遭っているからです。
「いつのまにか、誰もおらんようになってしまった。」
ケルルの胸に、トノサマガエルのオジサンから聞いた言葉が不意によみがえりました。
「僕たちの、いつの間にか、いなくなってしまうんだろうか」
ケルルは、急に怖くなってきました。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
弟のエルルに尋ねられても、ケルル怖い顔のままでした。
 結局、水田までの道中、エルルとケルルの会話は、ほとんどありませんでした。
「ねえ、ねえ、お兄ちゃんたら……」
 ケルルの言葉が、途中で止まると、同時に、エルルの目に、ケルルの引きつった顔が映りました。
「動くな!」
エルルが叫ぶ前に、ケルルはふらふらと吸い寄せられるように蛇の方へ近づいていきます。
「ケルル!」
もう、その時に、ケルルはこの世にいませんでした。残骸が蛇のお腹に入っているだけでした。
「ツチノコ見っけ!」
「ツチノコないていないよ!」
「でも、お腹が大きいよ」
「何かを食べてすぐだからだよ」
 わずか数分後、エルルが見た光景は、人間の男の子たちが、ケルルを飲み込んだ蛇の死骸を、棒でつついて遊んでいる、という残酷なものでした。
「怖いか?」
その言葉にエルルが振り返ると、そこにいたのは、いつか出会ったトノサマガエルのお爺さんでした。
 「この世界は、あっという間に変わっていく。この水田の回りには、ほんとうに沢山のトノサマガエルが住んでいたのに、今じゃワシ一匹じゃ。みんなあっという間にでてきて、あっという間に消えていく。」
「うん。怖いよ」
エルルは答えました。
「でも、怖いのあとには、きっと別世界が広がっている。ちょうど、僕らの世界が水中から陸上に変わったように。だから、どんなことがあっても、楽しいって言いたい。」
雨が上がりました。
雨蛙のエルルは蓮の葉の上で口笛を吹きました。
「ねえ、ねえ、今度は何処へ探検にいこうか」
池の周囲から陸上へ上がったばかりの蛙たちの話し声が、たくさん聞こえておりました。

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