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おたねさんちの童話集「ワニのメガネン」

ワニのメガネン
 
 ワニのメガネンたち兄弟は今日からお父さんに、獲物の捕まえ方を教わうことになりました。
「いいか、陸にあがったとき、こうやって目から涙を流すんだ。そうしたら獲物が油断して、中には平気で近づいてくる奴もいるから、そいつを狙う」
 そう言うと、お父さんはメガネンたちを岩陰に隠れさせて手本を見せはじめました。
 お父さんの周りには最初誰も怖がって近づいてきませんでしたが、やがてお父さんが目に涙を溜めて悲しそうな顔をしていると、辺りの空気が変わりはじめたのです。たんとなく今まで張り詰めていた空気が、とけていったような気がしました。
 しばらくすると、周囲の動物たちもお父さんをそれほど警戒しなくなったようでした。お父さんは涙をながしてはいますが、身体は微動だにしません。
 お父さんの姿は、いつの間にか周囲の風景に完全にとけこんでいました。
 そうして、小さなキツネが水を飲みにお父さんの近くまできた瞬間、
「ガブリ!」
 お父さんはキツネの胴体にかぶりついて、そのまま水中へ引きずりおろしました。
 それは一瞬の出来事でした。
 水面が真っ赤に染まっていました。
 もちろんメガネンにとって、それは子供の頃から見ていた光景ではありました。でも、今から、これを自分がしなければならないと思うと、急に怖くなってきたのでした。
 メガネンは自分が臆病だということは小さい頃から知っていました。学校の成績は決して赤点をとるようなことはありませんでしたが、通知表で5をとるようなこともありませんでした。いつもお父さんやお母さんがやりなさいということだけはやりましたが、自分で何かを頑張ることはなかったように思います。兄のアリキチは、責任感が強くて得意なことと苦手なことがはっきりしていましたが、自分で何でも計画を立てて兄弟たちをしっかりと引っ張ってゆくリーダーシップがありました。弟のワニンタは成績こそそんなにはよくありませんでしたが、ひょうきん者でクラスの人気者、そうして何よりもここ一番の集中力と忍耐力はずば抜けたものがありました。それに引き替え、メガネンは何も取り柄がないように思えて、ずっと劣等感を抱き続けていたのでした。
 やがてお父さんは長男のアリキチから順番に、狩りをやらせてみました。アリキチはお父さんのように陸へ上がると、ゆっくりと目を閉じました。そうして、カッと目を見開きました。でも涙はいきなり流れてくるものではありません。だんだんと見開いたままの目が充血してきます。当たりに緊迫した空気がなられます。静寂の中で、だんだんと獲物たちが遠ざかってゆくように思えました。でも、アリキチはあきらめません。十分たち、二十分たち、三十分が経過しても、アリキチは動きません。やがて一時間が経ったころ、やっとアリキチの目にうっすらと涙が浮かんできました。そうしてその頃には、張り詰めていた空気はどこかへと消えて、いつもの静かなジャングルへと戻ってきたように思います。鳥の歌や虫の声、時折、魚たちの跳ねる音も聞こえだしました。
「ガブリ!」
水面は真っ赤にそまりました。
でも、アリキチの口内にまだ獲物はいません。いったいどうしたんだ。あれほど真剣に目をこらして見ていた筈なのに、メガネンには、その瞬間どころか、獲物の姿も見付けられないまま、あっけにとられていました。
が、その間にアリキチはすぐさま、方向転換して、尻尾を鞭のようにしならせました。
 メガネンが獲物を発見したのはそのときでした。
 片足を失った大きなネズミが、血だらけのまま必死で逃げようともがいていたのです。
「バチーン!」
 アリキチは誇らしげに獲物をお父さんに見せたのでした。
 メガネンは、あっけにとられたまま、その様子を眺めていました。
「メガネン!」
 お父さんが叫びました。もちろんお兄さんの次はメガネンの番だと頭では分かっていましたが、そうだと気付くまでに、少し時間がかかりました。心の準備が出来ていなかったのでした。
 メガネンがお父さんやお兄さんのように陸へ上がろうとしたとき、まるで自分の足じゃないように震えていました。
 どれくらい時が流れたのでしょう。涙はまったく流れそうにもありません。兄貴がやったときのような緊張感が辺りに流れているようにも思えません。なんだか、ぼや~っとしたままの時間が過ぎていくようです。
 「やっぱり僕には無理なのかなあ」
メガネンはなんだか、悲しくなってきました。そうして小さい頃からの嫌な思い出がグルグルと頭の中を駆けめぐったのでした。
 初めて弟のワニンタに競泳で抜かれた瞬間。迷子になって一人だけ暗い闇に取り残された夜。そしてお母さんが人間たちに捕まえられた朝。
 いつしかメガネンの目には涙が溢れていました。
「メガネン!!」
「メガネン!!何をやってるんだ!!」
気付くと、メガネンにぶつかったウサギが慌てて逃げようとしてます。
「テヤー!!」
メガネンは尻尾を思いっきりしならせて、地面に叩きつけようとしました。脳裏に水面が真っ赤に染まったさっきの場面が浮かぶまでは。
「あっ」
メガネンに一瞬のためらいができ、尻尾を振り落とすのが遅れたのでした。
「もういい。次はワニンタの番だ」
お父さんの声にメガネンは何も考えることができなくなったのでした。
 ワニンタが狩りを始めても、メガネンはボンヤリと上の空でした。
 やがてワニンタが長男のアリキチよりも、上手に獲物をしとめて、お父さんが雄叫びをあげたときも、ずっとメガネンはボンヤリと空を見上げていました。
 人間たちがワニを襲いに来たのは、その夜のことでした。
 「逃げろ!逃げろ!」
 辺りにワニたちの怒号が飛び交います。何匹ものワニが大きな網に捕らわれてゆく地獄絵図のような景色の中をメガネンたち家族は縣命に逃げました。
「助けて……」
かすかな声にメガネンが振り向くと、今、まさに網にかかったワニの姿がみえました。
「え……」
「やめろ!!戻ってこい!!」
お父さんの言葉に背を向けてワニンタが必死の形相で助けに向かったのでした。
「アリーナ!アリーナ!」
ワニンタは、無我夢中で網を食いちぎろうとしたのでした。
「ワニンタ!!戻るんだ!!」
ワニンタはお父さんがどんなに声をからしても、必死で彼女を助けようとしました。
「ワニンタ戻れ!!」
アリキチがワニンタの腕のつかんで引き戻そうとしました。
「兄貴、やめろ!邪魔するな!!」
メガネンは身動き一つできずに、みつめていました。
「ゴン!」
大きな丸太がワニンタの脳天を直撃しました。
網の中に入ったワニンタとワニーナを引きずった人間たちが、ワニ狩りを終えたのは、それから間もなくのことでした。
お父さんは、黙ったまま何かを考えているようでした。アリキチ兄さんも一言も口をききません。辺りにはまだ、ワニたちの泣き声はあちらこちらから聞こえていました。
「ワニンタを助けに行く」
お父さんの声に耳を疑いました。
「お父さん、人間たちがどこにワニンタを連れて行ったのか知っているの!」
「ああ心当たりはある」
「アリキチ!お前はここに残れ!!」
「残るならメガネを残した方が……」
「狩りも出来ない奴を、どうやって一人でおいてゆけるんだ。それにお前やワニンタは、すぐに自分勝手な行動をとるがメガネンは余計なことをしない。お前がいるの邪魔になる」
もちろん嘘だとメガネンは思いました。家族を全滅させないなめに、お父さんはアリキチを残したのに決まっています。
でも……。
僕のような臆病者が、ほんとに役に立つのだろうか。
お父さんはメガネンを連れて、何日も何日も歩きました。
「どうしてお父さんは人間たちの居場所を知っているの?」
「それは……」
お父さんは遙か遠くを見ているようでした。
「メガネン……」
「はい」
「絶対に、どんなことがあっても、お父さんの言うとおりにするんだよ」
「えっ」
「着いたぞ」
メガネンは人間たちの住む家を、はじめてみました。
「あっちだ」
二匹は見つからないように裏手へと回ります。
「お父さん、あれ!!」
金網の向こうに何匹ものワニたちがとじこめられていました。
「さて、どうやってあの小屋へ入るかだ。」
お父さんによると、あの金網は絶対に食いちぎることができないのだそうです。ワニを閉じこめている小屋なのですから、ワニが入ることのできない小屋でもあるのです。
だから方法は一つ。
「人間がドアを開けた瞬間、襲う」
つまり人間がドアを開けた瞬間に、お父さんがそいつを襲い、そのすきにメガネンが中へ入って彼らを救出するという方法でした。
「いいかい。とにかくじっと待つんだ。人間が複数で来たときには襲わない。必ず一人でやってきたときだ」
「それから……、どんなことがあっても俺に構うな。これは命令だ」
 お父さんは厳しい顔をしました。
 「お父さんは、どうして兄貴じゃなくて僕を連れてきたの?」
 だんだんと不安になってきたメガネンは、分かっていたはずの質問をお父さんにしました。
「お父さんは昔、お前たちのお母さんを助けられなかったんだ」
「今だ!」
お父さんはメガネンに合図を送ると、人間の足元にかぶりつきました。
すかさずメガネンは中へと入り、大声で叫びました。
「ワニンタ!ワニンタ!!」
ワニンタはビックリした顔でメガネンを凝視していました。
「みんな、逃げるぞ!!」
ワニンタは大声で叫びます。
「出口は狭いから、列を作って速やかに!!」
メガネンも大声で叫びました。
そうしてドンドンとワニが脱走してゆきましたが、
「ズキューン!」
メガネンとワニンタの前には横たわって血を流すお父さんの姿がありました。
「ワニンタ、いいから逃げろ!!」
メガネンは、無理矢理ワニンタの腕を引っ張って逃げました。
「お父さん!!お父さん!!」
ワニンタは叫びます。
それでもメガネンは、グイグイとワニンタを引っ張って逃げました。
最初から、お父さんは覚悟を決めていたんだ。僕を選んだときから。
だから……。
「みんな、僕らの河は、こっちの方角だ!!」
メガネンの凜とした声が、夕日の向こうまで響きました。

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