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「おふでさきの物語」 第十六章 その2

 今日という日は、まだまだ将来の事がなにも分からないので、この道を歩む人もきっと不安で仕方のないことでしょう。しかし将来に目を向ければ必ずこの道は、非常に大きな往還道へと広がってゆくのです。その大きな道が見えてきたならば、どのような者であっても、決してこの道に敵うものなど存在しなくなることでしょう。神様には深い考えがあるのですが、きっとその考えは誰にも理解できないものなのです。神様の理想がだんだんと完成に近づいてきたならば、人々の心というものは内側から自然と澄み切ってくるのです。だからこそ、この世界を創造してから今まで、誰も知らなかったような話を説いてゆくのです。今まで、人間の心というものの真実の話を理解している者など誰一人として存在しませんでした。しかし今回この神様がこの世界に現れてどのような難しい事柄であってもすべて説いて聞かせるのです。そうしてこの話というのは、どこの誰につたえるかは言いません。それぞれの身体に神様が働いて、それぞれの手引きによって教えてゆくのです。どうしてここまで何度も繰り返し伝えてのか不思議に思うかもしれませんが、それは子供である人間が可愛いからこそこうして教えてゆくのです。
人間がたとえどのようなことをしても、誰も見ていないと思っていても、この神様の心の中には、知らないということはありません。だからこそ、どのようなことであっても、すべてのことをしっかりと人々に伝えて、そうした後に神様は働いてゆくのです。
 今までどのようなことがあっても、をやとして子供達の成長をじっと見守ってきました。しかしここでしっかりと聞いてください。今まで説いてきた話というものは、それはすべてどんなはなしであっても人間たちが話を聞いたということだけで終わってしまっているのです。しかし、今日という日は、どんどんと日が迫ってきているので、急がなければなりません。もうすぐどのようなことであってもすべて見えてくるのですから。ですから、乗り遅れるようなことがあってはどうにもならないのです。そのことを世界中の全ての人間が考えなければならないのです。いままで神様はさまざまなことを何度も繰り返し説いてきましたが、どのように説いてきかしても少しも理解しようとしないのが、をやとしての残念な気持ちなのです。この今という日までの間も、簡単に説いて聞かした訳はなありませんが、それでも、まったく理解しようとしません。でも今回こそはしっかりと考えてもらいたいのです。人間たちはいったいこの話をどのように聞いているのでしょうか。残念な気持ちがこれほどまでに積もり重なっての言葉でいるのです。だから今日という日に、こうして説いている神様の残念で腹立たしい気持ちは、けっして簡単に治まるようなものではないのです。この神様こそは、いままでにまったく存在されもしなかった世界や人間を創造し、こうして育ててきたをやなのです。そうしてそのをやが、こうしてひとつひとつ心をこめて「つとめ」を教えているのに、それを何も知らない子供達がかってに、そのつとめをつとめる太鼓を止めていくのです。その神様の残念な気持ちをしっかりと考えてもらいたいのです。だからこのかやしは絶対に神様ははらあずにはおれないのです。世界中の全ての人間はそのことをしっかりと考えて理解し、そうして承知をしなければなりません。
 今まで人間たちは何が大切なものなのかということも知らないで暮らしていましたが、これからは本当に大切な道筋が見えてきたといえるでしょう。それを楽しみにこれから歩んでゆけばよいのです。その道というものは、いったいどのような道だと人間たちは考えているでしょうか。この道こそ、世界中の人間全ての心を掃除してゆく道なのです。いったいどういうことかというと、それは神様の心に積もった残念な気持ちをはらすことでもあるのです。ですから、これから先は、誰それとは特定はしません。誰にでもあてはまることです。それぞれの人間の心の中をしっかりと神様はみているのです。ですから、今日という日からは神様が何処に現れて、どのような働きをするのか、きっと人々の想像を遙かにこえたものになることでしょう。そうして今からの神様の働きというものがいったいどこで行われるのか。それも人々の考えも呼ばないところなのです。
 社会の頂点から底辺にいたるまで、世界中のあちらこちらで神様はしっかりとはたらいているのですから。この世界中で神様が働いてさまざまなことが現れてくれば、それを治める方法を人間たちは決してしることはないでしょう。だからこそこの静め方が分からなくなってはこまるので、世界中の人間は精一杯に考えなければならないのです。そうして神様がおしえるつとめというものを、まったく別のものだと考えてはなりません。すべて可愛い子供たちをたすけたいという一心からなのですから。そのことをしらないから、人間の誰もが、だんだんと何か悪いもののように考えてしまっているのです。人間というものは、浅はかなものですから、をやがどのような言葉を説いてもその本当の意味を理解しないでいるのです。
 今までは、子供たちがまだまだ成人していなかったので、どのようなことがあっても言わずにじっと見守っていました。そのをやのもどかしさ、残念な気持ちをしっかりと考えてもらいたいのです。これからは神様の思うとおり、なんお遠慮もなく働いえいくのですから、どのような事態になるかわからないほどです。今まで人間たちは勝手な行いをしたり勝手なことをいったり、或いは思ったりをしてきましたが、これから先は、神様が遠慮せずにどんどんと働いてゆくのですから、どのようなことであっても、人間たちが買ってきままにはできなくなるでしょう。それは人間の目にはなにも見えていないかもしれませんが、神様の目にはさまざまなことがすべて見えているからなのです。ですから人間の勝手な判断で物事を進めてゆくことは辞めてほしいのです。なぜならば、ちょうどそれは泥水の中に落として、大切なものもゴミ同然にしてしまうようなものだからなのです。今までは本当に何も説いて教えてはきませんでしたが、今日という日が到来したからには、どのようなことも話さなければなりません。それは今日という日が来たからには人間たちの目にもはっきりと様々なことが理解できるようになったからなのです。ですからその時がきたならば神様がどのようにしてでも、引っ張ってでも、人間たちを成人の道へと連れて行くのです。今日という日は十分に期が熟した時旬なのですから、いつどのように神様が働いてもおかしくはないのです。そうして連れいくといっても、けっして簡単なこと、小さなことではないのです。本当に大きなことが見えるのですが、きとそれはまだ誰も分からないことでしょう。ですから、どれほどに地位の高いものであったとしても、これからは発言が違ってくることでしょう。そのことをしっかりと考えてもらいたいので。そうしてしっかりと心を入れ替えて、をやの心にしっかりと自らの心を定めなければならないのです。
 

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